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講孟余話 / 告子下 第六章

余謂ラク、古ヨリ大業ヲ成スノ人、恬退緩靜ナラサルハナシ、若シ伊尹ヲシテ度量狭隘、褊急躁妄、果シテ柳子ノ言ノ如クナラシメハ、豈天下ヲ任スルニ足ンヤ、且三聘ノ後、始テ播然トシテ出仕ルノ氣象ト雲泥ト云ヘシ、故ニ古人或ハ柳子ノ賛ヲ以テ、王伾王叔文ニ党スルノ過ヲ飾ルト云者アリ、飾ト云ハ甚シケレトモ、子厚ノ見自ラ如是、乃チ伾叔文ニ党スルヲ免レサル所以ナリ、而シテ子厚末年深ク自ラ平昔ヲ悔悟スルノ語多シ、是其学進ミ見進ムコト知ルヘシ、然レハ賛ニ謂フ所ハ、未定ノ見ニシテ、何ソ伊尹ヲ論スルニ足ンヤ、蘇頴濱ノ古史云、伊尹耕於莘野、既以処士從湯矣、及其適夏、非其私行也、湯必與知之、其君臣之心、以爲從湯伐桀、以濟斯世、不若使伊尹事桀以止其乱、雖使夏不亡商不興無憾也、又集註、楊氏曰、伊尹之就湯、以三聘之勤也、其就桀也、湯進之也、湯進伊尹欲桀悔過遷善而已、両說共ニ聖人ノ心ニ於テハ得ルコトアルカ如シ、而シテ本文、就湯就桀ハ自ラ就ナリ、事ト云ヒ使ト云ヒ進ト云フ、皆自ラ事使進スル也、然レハ両說果シテ當ルヤ否ヲ知ラス、柳子ノ賛却テ五就亦進ノ義ニ當レルカ如シト云トモ、又三聘ノ說ニ合ワス、况ヤ伊尹ノ度量ニ似サルヲヤ、孫子用間篇ニ、殷之興也、伊摯即チ伊尹在夏、ト云カ如キハ、伊尹ヲ以テ間者トスル義ニシテ、湯ノ意ヲ承テ夏ニ事ル所ノ說、蘇楊ノ両說ト同シケレ共、黑白誠僞復タ同年ノ論ニ非ス、故ニ姑ク闕疑ノミ、

新字:余謂ラク、古ヨリ大業ヲ成スノ人、恬退緩静ナラサルハナシ、若シ伊尹ヲシテ度量狭隘、褊急躁妄、果シテ柳子ノ言ノ如クナラシメハ、豈天下ヲ任スルニ足ンヤ、且三聘ノ後、始テ播然トシテ出仕ルノ気象ト雲泥ト云ヘシ、故ニ古人或ハ柳子ノ賛ヲ以テ、王伾王叔文ニ党スルノ過ヲ飾ルト云者アリ、飾ト云ハ甚シケレトモ、子厚ノ見自ラ如是、乃チ伾叔文ニ党スルヲ免レサル所以ナリ、而シテ子厚末年深ク自ラ平昔ヲ悔悟スルノ語多シ、是其学進ミ見進ムコト知ルヘシ、然レハ賛ニ謂フ所ハ、未定ノ見ニシテ、何ソ伊尹ヲ論スルニ足ンヤ、蘇頴浜ノ古史云、伊尹耕於莘野、既以処士従湯矣、及其適夏、非其私行也、湯必与知之、其君臣之心、以為従湯伐桀、以済斯世、不若使伊尹事桀以止其乱、雖使夏不亡商不興無憾也、又集註、楊氏曰、伊尹之就湯、以三聘之勤也、其就桀也、湯進之也、湯進伊尹欲桀悔過遷善而已、両説共ニ聖人ノ心ニ於テハ得ルコトアルカ如シ、而シテ本文、就湯就桀ハ自ラ就ナリ、事ト云ヒ使ト云ヒ進ト云フ、皆自ラ事使進スル也、然レハ両説果シテ当ルヤ否ヲ知ラス、柳子ノ賛却テ五就亦進ノ義ニ当レルカ如シト云トモ、又三聘ノ説ニ合ワス、況ヤ伊尹ノ度量ニ似サルヲヤ、孫子用間篇ニ、殷之興也、伊摯即チ伊尹在夏、ト云カ如キハ、伊尹ヲ以テ間者トスル義ニシテ、湯ノ意ヲ承テ夏ニ事ル所ノ説、蘇楊ノ両説ト同シケレ共、黒白誠偽復タ同年ノ論ニ非ス、故ニ姑ク闕疑ノミ、

書き下し

余謂へらく、古より大業を成すの人、恬退緩静ならざるはなし。若し伊尹をして度量狭隘、褊急躁妄、果して柳子の言の如くならしめば、豈に天下を任ずるに足らんや。且つ三聘の後、始めて幡然として出で仕ふるの気象と雲泥と云ふべし。故に古人或は柳子の賛を以て、王伾・王叔文に党するの過ちを飾ると云ふ者あり。飾ると云ふは甚だしけれども、子厚の見自ら是くの如し、乃ち伾・叔文に党するを免れざる所以なり。而して子厚末年深く自ら平昔を悔悟するの語多し。是れ其の学進み見進むこと知るべし。然れば賛に謂ふ所は、未定の見にして、何ぞ伊尹を論ずるに足らんや。蘇穎浜の古史に云ふ、「伊尹莘野に耕し、既に処士を以て湯に従ふ。其の夏に適くに及びては、其の私行に非ざるなり、湯必ず与り知る。其の君臣の心、以為へらく湯に従ひて桀を伐ち、以て斯の世を済ふは、伊尹をして桀に事へしめて以て其の乱を止め、夏をして亡びず商をして興らざらしむと雖も憾み無きに若かず」と。又集註、楊氏曰く、「伊尹の湯に就くは、三聘の勤めを以てなり。其の桀に就くや、湯之を進むるなり。湯伊尹を進むるは、桀の過ちを悔い善に遷らんことを欲するのみ」と。両説共に聖人の心に於ては得ることあるが如し。而して本文、就湯就桀は自ら就くなり。事と云ひ使と云ひ進と云ふ、皆自ら事へ使ひ進むなり。然れば両説果して当るや否やを知らず。柳子の賛却つて五就亦進の義に当れるが如しと云へども、又三聘の説に合はず。況んや伊尹の度量に似ざるをや。孫子用間篇に、「殷の興るや、伊摯即ち伊尹夏に在り」と云ふが如きは、伊尹を以て間者とする義にして、湯の意を承けて夏に事ふる所の説、蘇・楊の両説と同じけれども、黒白誠偽復た同年の論に非ず。故に姑く闕疑のみ。

現代語訳

私は思う。昔から大事業を成し遂げた人で、欲がなく退いて落ち着いていない人はいない。もし伊尹が、度量が狭く、せっかちで軽はずみで、本当に柳宗元の言うとおりであったなら、どうして天下を任せるに足りようか。それに、湯から三度招かれてはじめて心を翻して出仕したという気風とは雲泥の差である。だから昔の人の中には、柳宗元の賛は、王伾・王叔文の一派に加わった自分の過ちを飾るためのものだと言う人もいる。飾るというのは言い過ぎだが、子厚の見方がもともとこうであったことが、伾・叔文の一派に加わるのを免れなかった理由である。そして子厚は晩年、昔の自分を深く悔いる言葉が多い。学問が進み見識が進んだことが分かる。だから賛に言うところは、まだ定まらない見方であって、伊尹を論じるには足りない。蘇轍の『古史』にはこうある。「伊尹は莘の野で耕し、無位の人として湯に従った。夏の国へ行ったのも勝手な行動ではなく、湯は必ず知っていた。その君臣の心は、湯に従って桀を伐ちこの世を救うよりも、伊尹を桀に仕えさせてその乱れを止められるなら、夏が滅びず商が興らなくても悔いはない、と考えていた」。また朱子の集註に楊時の説がある。「伊尹が湯に就いたのは、三度の招きの熱意による。桀に就いたのは、湯が推薦したからである。湯が伊尹を推したのは、桀が過ちを悔いて善に移ることを望んだだけである」。二つの説はどちらも聖人の心については得るところがあるようだ。しかし本文の「湯に就き桀に就く」は、自ら就いたのである。「事える」「使う」「進む」と言うのも、みな自ら仕え使い進むのである。だから二つの説が当たっているかどうかは分からない。柳宗元の賛はかえって「五たび就く」「乱れても進む」の意味に当たるようだが、三度の招きの説とは合わない。まして伊尹の度量には似ない。『孫子』用間篇に「殷が興るとき、伊摯(伊尹)は夏にいた」と言うのは、伊尹を間者とする意味で、湯の意を受けて夏に仕えたとする点では蘇・楊の二説と同じだが、白と黒、誠と偽で、同列に論じられるものではない。だからひとまず疑問のまま残しておく。

解説

松陰は柳宗元の伊尹像を退けます。大事業を成す人は欲がなく落ち着いているもので、せっかちに何度も暴君のもとへ駆け込む人物では天下を任せられない。三度招かれてようやく出仕した伊尹の気風とも合わない。柳宗元がのちに改革派の一員として失脚したのも、この性急な見方ゆえだと指摘します。さらに蘇轍・楊時の説、孫子の間者説まで検討し、どれも決め手がないとして「姑く闕疑」と保留します。分からないことを分からないと言える態度は、学ぶ者の誠実さそのものです。

この章句が説くこと

闕疑伊尹度量出処学問

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