講孟余話 / 告子下 第五章
是等ノ章ニ於テ、古人賢ヲ貴フノ重ク、賢者自ラ居ルノ貴キヲ知ルヘシ、今ヤ賢ヲ貴フ人ナク、又自ラ貴フ人ナキハ、古今ノ一変革ト知ルヘシ、古道ヲ以テ自ラ任スル者、豈嘆セサルコトヲ得ンヤ、儀不及物ノ一句深思スヘシ、儀薄シテ物重キハ、不及ナリ、不享ナリ、物輕ト云トモ儀厚キハ享ナリ、儀ハ外容ノ礼儀ヲ云ニハ非ス、礼意ノコトト知ヘシ、司馬溫公ノ所謂會数而礼勤、物薄而情厚、ト云モ此義ト通ス、小學外篇善行実敬身ニ載ス溫公曰、先公爲群牧判官、客至、未嘗不置酒、或三行或五行、不過七行、當酒沽於市、果止梨栗棗柿、肴止於脯醢菜羹、器用甕漆、當時士太夫皆然、人不相非也、會数而禮勤、物薄而情厚、右四月三日是日先君子二十二回忌辰也
新字:是等ノ章ニ於テ、古人賢ヲ貴フノ重ク、賢者自ラ居ルノ貴キヲ知ルヘシ、今ヤ賢ヲ貴フ人ナク、又自ラ貴フ人ナキハ、古今ノ一変革ト知ルヘシ、古道ヲ以テ自ラ任スル者、豈嘆セサルコトヲ得ンヤ、儀不及物ノ一句深思スヘシ、儀薄シテ物重キハ、不及ナリ、不享ナリ、物軽ト云トモ儀厚キハ享ナリ、儀ハ外容ノ礼儀ヲ云ニハ非ス、礼意ノコトト知ヘシ、司馬温公ノ所謂会数而礼勤、物薄而情厚、ト云モ此義ト通ス、小学外篇善行実敬身ニ載ス温公曰、先公為群牧判官、客至、未嘗不置酒、或三行或五行、不過七行、当酒沽於市、果止梨栗棗柿、肴止於脯醢菜羹、器用甕漆、当時士太夫皆然、人不相非也、会数而礼勤、物薄而情厚、右四月三日是日先君子二十二回忌辰也
書き下し
是等の章に於て、古人賢を貴ぶの重く、賢者自ら居るの貴きを知るべし。今や賢を貴ぶ人なく、又自ら貴ぶ人なきは、古今の一変革と知るべし。古道を以て自ら任ずる者、豈に嘆ぜざることを得んや。「儀物に及ばず」の一句深思すべし。儀薄くして物重きは、不及なり、不享なり。物軽しと云へども儀厚きは享なり。儀は外容の礼儀を云ふには非ず、礼意のことと知るべし。司馬温公の所謂「会すること数にして礼勤め、物薄くして情厚し」と云ふも此の義と通ず。小学外篇善行実敬身に載す。温公曰く、「先公群牧判官たりし時、客至れば、未だ嘗て置酒せずんばあらず。或は三行、或は五行、七行に過ぎず。酒は市に沽ひ、果は梨栗棗柿に止まり、肴は脯醢菜羹に止まり、器は甕漆を用ふ。当時の士大夫皆然り、人相非らざるなり。会すること数にして礼勤め、物薄くして情厚し」と。右四月三日、是の日先君子二十二回忌辰なり。
現代語訳
こうした章によって、昔の人が賢者を貴ぶことの重さと、賢者が自らを持する気高さを知るべきである。今は賢者を貴ぶ人もなく、また自らを貴ぶ人もいない。これは昔と今との一つの大きな変わり目と知るべきである。古の道を自分の任とする者が、どうして嘆かずにいられようか。「儀(心づかい)が物に及ばない」の一句は深く考えるべきである。心づかいが薄くて品物が重いのは「及ばない」のであり、受け入れられないのである。品物が軽くても心づかいが厚ければ受け入れられる。儀とは外見の礼儀作法を言うのではなく、礼の心のことと知るべきである。司馬光の言う「たびたび会って礼を尽くし、品物は薄くても情は厚い」というのも、この意味と通じる(『小学』外篇・善行・実敬身に載せる)。司馬光は言った。「亡父が群牧判官であったとき、客が来れば必ず酒を出した。三巡か五巡、七巡を超えることはなかった。酒は市場で買い、果物は梨・栗・棗・柿だけ、肴は干し肉・塩辛・野菜の汁物だけ、器は素焼きや漆器を使った。当時の士大夫はみなそうで、互いに非難することもなかった。たびたび会って礼を尽くし、品物は薄くても情は厚かった」と。右は四月三日、この日は亡き父の二十二回忌の日である。
解説
この章句が説くこと
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孟子・離婁章句下其の間、寸を以てすること能はず。」
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史記 魏世家昭公卒して六卿彊く、公室卑し。晋の頃公の十二年、韓宣子老し、魏献子国政を為す。晋の宗室の祁氏・羊舌氏相悪む。六卿之を誅し、尽く其の邑を取りて十県と為し、六卿各々其の子をして之が大夫と為らしむ。献子、趙簡子・中行文子・范献子と并びに晋の卿為り。其の後十四歳にして孔子魯に相たり。後四歳、趙簡子晋陽の乱を以て、韓・魏と共に范・中行氏を攻む。魏献子、魏侈を生む。魏侈、趙鞅と共に范・中行氏を攻む。魏侈の孫を魏桓子と曰ふ。韓康子・趙襄子と共に知伯を伐ち滅ぼし、其の地を分つ。桓子の孫を文侯都と曰ふ。魏の文侯の元年は、秦の霊公の元年なり。韓の武子・趙の桓子・周の威王と時を同じくす。六年、少梁に城く。十三年、子撃をして繁・龐を囲ましめ、其の民を出だす。十六年、秦を伐ち、臨晋・元裏に築く。十七年、中山を伐ち、子撃をして之を守らしめ、趙倉唐之に傅たり。子撃、文侯の師田子方に朝歌に逢ひ、車を引きて避け、下りて謁す。田子方礼を為さず。子撃因りて問ひて曰く、『富貴なる者人に驕るか。且つ貧賤なる者人に驕るか』と。子方曰く、『亦貧賤なる者人に驕るのみ。夫れ諸侯にして人に驕れば則ち其の国を失ひ、大夫にして人に驕れば則ち其の家を失ふ。貧賤なる者は、行ひ合はず、言用ひられずんば、則ち去りて楚・越に之くこと、屣を脱ぐが若く然り。奈何ぞ其れ之を同じくせんや』と。子撃懌ばずして去る。西のかた秦を攻め、鄭に至りて還り、雒陰・合陽に築く。廿二年、魏・趙・韓列して諸侯と為る。廿四年、秦我を伐ち、陽狐に至る。廿五年、子撃子罃を生む。
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