酔古堂剣掃 / 集法・心上に過ぎ去らざる事を行ふ莫かれ
莫行心上過不去事,莫存事上行不去心。
書き下し
心上に過ぎ去らざるの事を行ふ莫かれ、事上に行ひ去らざるの心を存する莫かれ。
現代語訳
自分の心の上で納得できないようなことを行ってはいけません。実際の事の上で行えないような心を抱いてはいけません。
解説
心と行いのずれを両方向から戒めた一則です。前半は、良心にひっかかること、自分で自分を許せないようなことはするなと言います。後半は、実行できないような考えや空想を心に抱え込むなと言います。つまり、心が認めないことは行わず、行えないことは心に置かないというように、心と行いを一致させよという教えです。後ろめたいことをすると心が曇り、実行しない理想ばかり抱くと口先だけの人になります。心と行いがそろっている人こそ、周りから信頼されるのではないでしょうか。

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修身良心言行誠実実践
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