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講孟余話 / 告子下 第三章

凱風、親之過小者也、小弁親之過大者也、大トハ天下國家ノ安危存亡ノ数ニ係ルコトヲ云、小トハ一家内ノ事ノミナルヲ云、周公ノ管蔡ヲ誅スルハ天下ヲ乱ル故ナリ、所謂大ナリ、舜ノ象ヲ封スルハ其惡舜ノ一身ニ加ルニ止ル故ナリ、所謂小ナリ、此大小ノ辨、大ニ名教ニ干ルコト也、匆々ニスヘカラズ、舜其至孝矣、五十而慕、朱註ニ、萬章上篇首章、怨慕ノ意ヲ取リ、慕ヲ以テ小弁ノ怨ト引合スルハ、余未タ其意ヲ得ズ、余謂ラク、慕ノ字怨ノ義アルニ非ス、即チ思慕ノ意ナリ、小弁ノ怨モ思慕ヨリ出ルナリ、凱風ノ怨ミサルモ思慕ヨリ出ル也、故ニ慕ノ一字ヲ以テ、怨不怨ノ両意ヲ結ヒタル者ナリ

新字:凱風、親之過小者也、小弁親之過大者也、大トハ天下国家ノ安危存亡ノ数ニ係ルコトヲ云、小トハ一家内ノ事ノミナルヲ云、周公ノ管蔡ヲ誅スルハ天下ヲ乱ル故ナリ、所謂大ナリ、舜ノ象ヲ封スルハ其悪舜ノ一身ニ加ルニ止ル故ナリ、所謂小ナリ、此大小ノ弁、大ニ名教ニ干ルコト也、匆々ニスヘカラズ、舜其至孝矣、五十而慕、朱註ニ、万章上篇首章、怨慕ノ意ヲ取リ、慕ヲ以テ小弁ノ怨ト引合スルハ、余未タ其意ヲ得ズ、余謂ラク、慕ノ字怨ノ義アルニ非ス、即チ思慕ノ意ナリ、小弁ノ怨モ思慕ヨリ出ルナリ、凱風ノ怨ミサルモ思慕ヨリ出ル也、故ニ慕ノ一字ヲ以テ、怨不怨ノ両意ヲ結ヒタル者ナリ

書き下し

凱風は親の過ち小なる者なり。小弁は親の過ち大なる者なり。大とは天下国家の安危存亡の数に係ることを云ふ。小とは一家内の事のみなるを云ふ。周公の管蔡を誅するは天下を乱る故なり、所謂大なり。舜の象を封ずるは其の悪舜の一身に加はるに止まる故なり、所謂小なり。此の大小の弁、大いに名教に干ることなり、匆々にすべからず。「舜は其れ至孝なり、五十にして慕ふ」。朱註に、萬章上篇首章、怨慕の意を取り、慕を以て小弁の怨と引き合はするは、余未だ其の意を得ず。余謂へらく、慕の字怨の義あるに非ず、即ち思慕の意なり。小弁の怨も思慕より出づるなり。凱風の怨みざるも思慕より出づるなり。故に慕の一字を以て、怨不怨の両意を結びたる者なり。

現代語訳

「詩経の凱風の詩は、親の過ちが小さいものである。小弁の詩は、親の過ちが大きいものである」。大きいとは、天下国家の安危存亡にかかわることをいう。小さいとは、一家の中だけのことをいう。周公が管叔・蔡叔を誅したのは天下を乱したからで、いわゆる大である。舜が弟の象を諸侯に封じたのは、その悪が舜一人の身に加えられたにとどまったからで、いわゆる小である。この大小の区別は、名分の教えに大いにかかわることで、軽々しく扱ってはならない。「舜はこの上ない孝子である。五十歳になっても親を慕った」。朱子の注が萬章上篇首章の「怨み慕う」の意を取って、慕を小弁の怨みと結びつけているのは、私にはまだその意味が分からない。私は思う。慕の字に怨みの意味があるのではなく、思い慕う意味である。小弁の怨みも思慕から出ている。凱風の怨まないのも思慕から出ている。だから慕の一字で、怨むと怨まないの二つの意味を結んだのである。

解説

孟子は、親の過ちが大きいのに怨まないのはかえって親を遠ざけることで不孝、小さいのに怨むのは怒りっぽく不孝だと言い、詩経の凱風と小弁を例にしました。松陰は、大小とは天下国家に関わるか一家の内にとどまるかの違いだと整理し、周公と舜の例で示します。さらに朱子の注に異を唱え、舜の「慕」は怨みではなく思慕であり、怨むも怨まないも親を思う心から出ると読みます。親や身近な人の過ちにどう向き合うか、怒りの奥にある情を見つめさせる一節です。

この章句が説くこと

孝思慕過ち親子名教

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