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講孟余話 / 告子下 第二章

此說明白ト云ヘシ、然トモ学者、多ク銅鉄ヲ混シ量目ヲ重クスルノ念已ミ難シ、浩嘆ニ餘アリ、余因テ自ラ期スル所アリ、凢ソ人ノ人タル所ハ私心ヲ除去スルニアリ、是聖学ノ工夫ナリ、故ニ是ヲ以テ主本トシ、其他記誦詞章以下ハ一个ノ技藝ヲ以テ視ルヘシ、聖人ト雖トモ、射御書数ノ類ノ技藝ヲ廃スルコト能ハス、而シテ其是ヲ学フニ當テハ、心ヲ專ニシ志ヲ致サヽルハナシ、是即チ敬ノ道ナリ、唯技藝ハ技藝ヲ以テ是ヲ視テ、之ヲ以テ人ノ人タル所以トナサヽルノミ、故ニ記誦詞章ノ如キモ、是ニ準シテ、技藝ヲ以テ視ハ固ヨリ廃スヘキニ非ズ、而シテ又何ノ害カアランヤ、

新字:此説明白ト云ヘシ、然トモ学者、多ク銅鉄ヲ混シ量目ヲ重クスルノ念已ミ難シ、浩嘆ニ余アリ、余因テ自ラ期スル所アリ、凢ソ人ノ人タル所ハ私心ヲ除去スルニアリ、是聖学ノ工夫ナリ、故ニ是ヲ以テ主本トシ、其他記誦詞章以下ハ一个ノ技芸ヲ以テ視ルヘシ、聖人ト雖トモ、射御書数ノ類ノ技芸ヲ廃スルコト能ハス、而シテ其是ヲ学フニ当テハ、心ヲ専ニシ志ヲ致サヽルハナシ、是即チ敬ノ道ナリ、唯技芸ハ技芸ヲ以テ是ヲ視テ、之ヲ以テ人ノ人タル所以トナサヽルノミ、故ニ記誦詞章ノ如キモ、是ニ準シテ、技芸ヲ以テ視ハ固ヨリ廃スヘキニ非ズ、而シテ又何ノ害カアランヤ、

書き下し

此の説明白と云ふべし。然れども学者、多く銅鉄を混じ量目を重くするの念已み難し。浩嘆に余りあり。余因りて自ら期する所あり。凡そ人の人たる所は私心を除去するにあり。是れ聖学の工夫なり。故に是を以て主本とし、其の他記誦詞章以下は一個の技芸を以て視るべし。聖人と雖も、射御書数の類の技芸を廃すること能はず。而して其の是を学ぶに当りては、心を専らにし志を致さざるはなし。是れ即ち敬の道なり。唯技芸は技芸を以て是を視て、之を以て人の人たる所以となさざるのみ。故に記誦詞章の如きも、是に準じて、技芸を以て視ば固より廃すべきに非ず。而して又何の害かあらんや。

現代語訳

この説は明白というべきである。しかし学者の多くは、銅や鉄を混ぜて目方を重くしようとする思いがやめられない。大いに嘆かわしい。私はそこで自ら心に決めたことがある。およそ人が人である理由は、私心を取り除くことにある。これが聖人の学問の工夫である。だからこれを根本とし、そのほかの暗記や詩文などは、一つの技芸として見るべきである。聖人でも、弓・馬術・書・算術のたぐいの技芸をやめることはできなかった。そしてそれを学ぶときには、心を一つにし志を尽くさないことはなかった。これがすなわち「敬」の道である。ただ、技芸は技芸として見て、それを人が人である理由とはしないだけである。だから暗記や詩文のようなものも、これに準じて技芸として見るなら、もちろんやめるべきものではない。そうすれば何の害があろうか。

解説

陽明の純金の喩えを受けて、松陰は自分の方針を定めます。人が人であるのは私心を除くことで、それが学問の根本。暗記や詩文などは技芸として扱う。ただし技芸を軽んじるのではなく、聖人も弓馬書算を学び、学ぶときは心を専らにした、それが敬だと言います。肝心なのは、技芸を人間の値打ちそのものと取り違えないことです。資格やスキルを磨くことと、人としての芯を育てることを混同しない、現代にもそのまま通じる整理です。

この章句が説くこと

技芸私心敬学問根本

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