講孟余話 / 告子下 第二章
人皆可以為堯舜、周書多方ニ惟聖罔念作狂、惟狂克念作聖、ノ語アリ、是此語ト符合ス、是徒ニ自暴自棄ノ者ヲ厲激スルノ說トナスモ、自ラ一說ナルヘシ、然トモ、是性善ノ本旨ニ本ツカサルノ說也、王陽明ノ說ニ、聖トハ私欲消盡シテ天理純全ナルノ名ナリ、量目ノ輕重ニ非ス、故ニ聖ハ純金ノ如シ、其輕重ニ至テハ、聖タル所以ニ非ルナリ、故ニ聖人中ニ在テ自ラ輕重アリ、堯舜孔子ノ如キハ百両金ナルヘシ、文王周公ハ七八十両、湯武ハ五六十両ナトヽ、各輕重ノ差ハアレトモ、純金タルコトハ同シ、今吾輩ト云トモ、私欲ヲ消尽シ天理純全ナラハ、亦自ラ一両ヤ二両ノ純金ハアルヘシ、然トモ後世ノ学者力ヲ此処ニ用ヒス、徒ニ才力智勇ヲ尙フハ銅鉄ヲ混シテ金ノ量目ヲ重セントスルカ如シ、故ニ愈学ンテ愈聖ヲ去ルコト遠シト云ヘリ、此說傳習錄ニ見ユ、今臆記スル所ニ因テ大意ヲ記スルノミ、
新字:人皆可以為堯舜、周書多方ニ惟聖罔念作狂、惟狂克念作聖、ノ語アリ、是此語ト符合ス、是徒ニ自暴自棄ノ者ヲ厲激スルノ説トナスモ、自ラ一説ナルヘシ、然トモ、是性善ノ本旨ニ本ツカサルノ説也、王陽明ノ説ニ、聖トハ私欲消尽シテ天理純全ナルノ名ナリ、量目ノ軽重ニ非ス、故ニ聖ハ純金ノ如シ、其軽重ニ至テハ、聖タル所以ニ非ルナリ、故ニ聖人中ニ在テ自ラ軽重アリ、堯舜孔子ノ如キハ百両金ナルヘシ、文王周公ハ七八十両、湯武ハ五六十両ナトヽ、各軽重ノ差ハアレトモ、純金タルコトハ同シ、今吾輩ト云トモ、私欲ヲ消尽シ天理純全ナラハ、亦自ラ一両ヤ二両ノ純金ハアルヘシ、然トモ後世ノ学者力ヲ此処ニ用ヒス、徒ニ才力智勇ヲ尚フハ銅鉄ヲ混シテ金ノ量目ヲ重セントスルカ如シ、故ニ愈学ンテ愈聖ヲ去ルコト遠シト云ヘリ、此説伝習録ニ見ユ、今臆記スル所ニ因テ大意ヲ記スルノミ、
書き下し
人皆以て堯舜と為るべし。周書多方に「惟れ聖も念ふこと罔ければ狂と作り、惟れ狂も克く念へば聖と作る」の語あり。是れ此の語と符合す。是れ徒に自暴自棄の者を厲激するの説となすも、自ら一説なるべし。然れども、是れ性善の本旨に本づかざるの説なり。王陽明の説に、聖とは私欲消尽して天理純全なるの名なり。量目の軽重に非ず。故に聖は純金の如し。其の軽重に至りては、聖たる所以に非ざるなり。故に聖人中に在りて自ら軽重あり。堯舜孔子の如きは百両の金なるべし。文王周公は七八十両、湯武は五六十両などと、各軽重の差はあれども、純金たることは同じ。今吾輩と云へども、私欲を消尽し天理純全ならば、亦自ら一両や二両の純金はあるべし。然れども後世の学者力を此の処に用ひず、徒に才力智勇を尚ぶは銅鉄を混じて金の量目を重くせんとするが如し。故に愈々学んで愈々聖を去ること遠しと云へり。此の説伝習録に見ゆ。今臆記する所に因りて大意を記するのみ。
現代語訳
「人はみな堯や舜になることができる」。『書経』周書の多方篇に「聖人でも思いを失えば狂人となり、狂人でもよく思えば聖人となる」という言葉がある。これはこの言葉と符合する。これを、ただ自暴自棄の者を励ますための説だとするのも、一つの説ではあろう。しかしそれは性善の本旨にもとづかない説である。王陽明の説ではこうである。聖とは、私欲がすっかり消えて天理が純粋に満ちていることの名であり、目方の軽い重いではない。だから聖は純金のようなもので、その目方の軽重は、聖である理由ではない。それで聖人の中にもおのずと軽重がある。堯・舜・孔子のような人は百両の金であろう。文王・周公は七、八十両、湯王・武王は五、六十両などと、それぞれ軽重の差はあるが、純金であることは同じである。今の私たちでも、私欲を消し尽くして天理が純粋に満ちれば、一両や二両の純金はあるはずだ。ところが後世の学者はここに力を用いず、ただ才力や知恵や勇気を尊ぶ。これは銅や鉄を混ぜて金の目方を重くしようとするようなものだ。だから学べば学ぶほど聖から遠ざかる、と。この説は『伝習録』に見える。今は記憶しているところによって大意を記すだけである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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伝習録・薛侃録希淵問う、「聖人は学びて至るべし。然れども伯夷・伊尹の孔子に於ける、才力は終に同じからず。其の同じく之を聖と謂う者は安くにか在る」と。先生曰く、「聖人の聖為る所以は、只だ是れ其の心の純乎たる天理にして、人欲の雑わり無きなり。猶お精金の精為る所以は、但だ其の成色の足りて銅鉛の雑わり無きを以てするがごとし。人は純乎たる天理に到りて方に是れ聖なり。金は足色に到りて方に是れ精なり。然れども聖人の才力も、亦た大小の同じからざる有り。猶お金の分量に軽重有るがごとし。堯・舜は猶お万鎰、文王・孔子は猶お九千鎰、禹・湯・武王は猶お七八千鎰、伯夷・伊尹は猶お四五千鎰のごとし。才力は同じからざるも、純乎たる天理は則ち同じ。皆な之を聖人と謂うべし。猶お分量は同じからずと雖も、足色は則ち同じければ、皆な之を精金と謂うべきがごとし。五千鎰なる者を以て万鎰の中に入るるも、其の足色は同じきなり。夷・尹を以て堯・孔の間に廁(まじ)うるも、其の純乎たる天理は同じきなり。蓋し精金為る所以の者は、足色に在りて、分量に在らず。聖為る所以の者は、純乎たる天理に在りて、才力に在らざるなり。故に凡人と雖も肯えて学を為し、此の心をして純乎たる天理ならしめば、則ち亦た聖人と為るべし。猶お一両の金の之を万鎰に比すれば、分量は懸絶すと雖も、其の足色に到る処は、以て愧づる無かるべきがごとし。故に『人は皆な以て堯・舜と為るべし』と曰うは此を以てなり。学者の聖人を学ぶは、人欲を去りて天理を存するに過ぎざるのみ。猶お金を錬りて其の足色を求むるがごとし。金の成色の争う所多からずんば、則ち鍛錬の工は省けて功は成り易し。成色愈々下れば、則ち鍛錬愈々難し。人の気質は清濁粋駁、中人以上・中人以下有り。其の道に於けるや、生知安行・学知利行有り。其の下なる者は必ず須らく人一たびせば己は百たびし、人十たびせば己は千たびすべし。其の功を成すに及びては則ち一なり。後世は聖と作るの本は是れ純乎たる天理なるを知らずして、却って専ら知識・才能の上に去きて聖人を求む。以為えらく聖人は知らざる所無く、能くせざる所無し、我は須らく是れ聖人の許多の知識・才能を将(もっ)て逐一に理会して始めて得べしと。故に天理の上に去きて工夫を著くるを務めず、徒らに精を弊し力を竭くして、冊子の上より鑽研し、名物の上に考索し、形迹の上に比擬す。知識愈々広くして人欲愈々滋(ま)し、才力愈々多くして天理愈々蔽わる。正に人の万鎰の精金有るを見て、鍛錬して成色し、彼の精純に愧づる無きを求むるを務めずして、乃ち妄りに分量を希(ねが)い、務めて彼の万鎰と同じからんとし、錫・鉛・銅・鉄を雑然として投じ、分量愈々増して成色愈々下り、既に其の梢末に、復た金有る無きが如し」と。時に曰仁、傍らに在り。曰く、「先生の此の喩えは、以て世儒の支離の惑いを破るに足る。大いに後学に功有り」と。先生又た曰く、「吾輩の功を用うるは、只だ日に減ずるを求め、日に増すを求めず。一分の人欲を減じ得れば、便ち是れ一分の天理を復し得るなり。何等の軽快脱灑ぞ。何等の簡易ぞ」と。
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伝習録・薛侃録徳章曰く、「聞くならく、先生は精金を以て聖に喩え、分量を以て聖人の分量に喩え、鍛錬を以て学者の工夫に喩う。最も深切と為す。惟だ堯・舜を万鎰と為し、孔子を九千鎰と為すと謂うは、未だ安からざるを疑う」と。先生曰く、「此れ又た是れ軀殻の上に念を起こす。故に聖人に替わりて分量を争う。若し軀殻の上より念を起こさずんば、即ち堯・舜の万鎰も多しと為さず、孔子の九千鎰も少なしと為さず。堯・舜の万鎰は、只だ是れ孔子の的なり。孔子の九千鎰は、只だ是れ堯・舜の的なり。原と彼我無し。所以に之を聖と謂う。只だ『精一』を論じ、多寡を論ぜず。只だ此の心の純乎たる天理の処の同じきを要すれば、便ち同じく之を聖と謂う。若し是れ力量気魄ならば、如何ぞ尽くは同じきを得んや。後儒は只だ分量の上に較量す。所以に功利に流入す。若し比較分量の心を除き去らば、各人、自己の力量精神を尽著(つ)くし、只だ此の心の純天理の上に功を用うれば、即ち人人自ら有り、個個円成し、便ち能く大を以て大を成し、小を以て小を成す。外慕を仮らず、具足せざる無し。此れ便ち是れ実実落落として善を明らかにし身を誠にするの事なり。後儒は聖学に明らかならず、自己の心地の良知良能の上に就きて体認擴充するを知らず、却って去きて其の知らざる所を知らんことを求め、其の能くせざる所を能くせんことを求め、一味に只だ是れ高きを希(ねが)い大を慕う。自己は是れ桀・紂の心地なるを知らずして、動もすれば堯・舜の事業を做さんと要す。如何ぞ做し得ん。終年碌碌として、老死に至るまで、竟に個の甚麼をか成就し了るを知らず。哀しむべきのみ」と。
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『童子問』卷下問ふ、孟子曰く、夫子は堯舜より賢れること遠し、と。程子曰く、聖を語れば則ち異ならず、事功は則ち異なる有り。夫子の堯舜より賢れるは、事功を語るなり、と。此の説頗る牽合に似たり。如何、と。曰く、聖人も亦人なるのみ。安んぞ人人皆同じきを得ん。天地の化と雖も、豊年有り、歉歳有り、年年同じからず、歳歳相異なる。千歳の遠きを経と雖も、一歳も同じきを得ず。奚ぞ独り聖人に於て之を疑はん。程子は専ら理の字を以て懸断して、其の実を視ることを知らざるが故なり。予以謂へらく、孟子の後、道を識る者は、程子に若くは莫し。然れども猶高遠を悦ぶの意有り。故に孔孟の旨に於て、齟齬する所の者間々多し。孟子は只堯舜より賢れりと曰ひて、其の堯舜より賢れる所以の者如何を曰はず。則ち未だ必ずしも定めて事功を以て之を言ふと為すべからず。王陽明は万鎰の金を以て堯舜に譬へ、九千鎰の金を以て孔子に譬ふ。尤も非なり。以て道を知る者の大噱に供すべし。故に実に孟子の本指を知りて、而る後に能く孔子の孔子たる所以を知る。孔子の孔子たる所以を知りて、而る後に真に其の堯舜より賢れる所以を知る。
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『呻吟語』内篇・問學・不自滿假の四字堯・舜・禹・湯・文・武は全て「不自滿假」の四字より做し出だす。孔子に至りては、平生謙退沖虛、過ちを引きて自ら責む。只だ世間に無窮の道理有り、自家に未だ盡くさざるの分量有るを看著するのみ。聖人の心は蓋し此の如し。但だ人は堯・舜に非ず、誰か氣質無からん。稍しく偏り、造詣未だ至らず、識見未だ融せず、體驗未だ到らず、物欲未だ忘れざる底の過失は、只だ是れ自家平生の足らざる所の者なり。再び肯へて口中より說き出だして、以て自ら勉め自ら責めず、亦た肯へて別人に向かひて招認して、以て相勸め相規するを求めず。
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『講孟余話』告子下 第二章此の説明白と云ふべし。然れども学者、多く銅鉄を混じ量目を重くするの念已み難し。浩嘆に余りあり。余因りて自ら期する所あり。凡そ人の人たる所は私心を除去するにあり。是れ聖学の工夫なり。故に是を以て主本とし、其の他記誦詞章以下は一個の技芸を以て視るべし。聖人と雖も、射御書数の類の技芸を廃すること能はず。而して其の是を学ぶに当りては、心を専らにし志を致さざるはなし。是れ即ち敬の道なり。唯技芸は技芸を以て是を視て、之を以て人の人たる所以となさざるのみ。故に記誦詞章の如きも、是に準じて、技芸を以て視ば固より廃すべきに非ず。而して又何の害かあらんや。
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孟子・離婁章句下儲子曰く、「王人をして夫子を瞷(うかが)はしむ、果たして以て人に異なる有るか。」孟子曰く、「何を以て人に異ならんや。堯・舜も人と同じきのみ。」
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