講孟余話 / 告子上 第二十章
上章ニ五穀モ熟セサレハ荑稗ニ如カズト云タル故、柔懦ナル人ハ五穀ト云テハ餘リ大造ナルコト故荑稗ニテ濟スヘシト云者アランコトヲ恐レテ、又此二ツノ譬ヲ設クルナリ、射術ニテモ番匠ニテモ、初学ヨリ極詰ヲ以テ教ユルニ、却テ聖人ノ道ニ至テ中等下等ヲ以テ教ルノ義アランヤトナリ、程子ノ所謂第一等ヲ以テ別人ニ讓リ姑ク第二等ヲナスト云フコトナカレ、是即チ自棄ナリノ意ニテ、全篇性善ノ議論ノ帰結ナリ、告子上篇二十章、皆性善ヲ論ス、第六章迄ハ、正面ノ論ナリ、故ニ第六章ニ於テ、惻隱羞悪恭敬是非ノ說ニ及ヒ、性ノ善ナル所ヲ說尽スナリ、第四章第五章、合シテ一章トナシテ見ルヘシ、第七章ヨリ第九章迄ハ性善ナレトモ、不善ニ陷ル故ヲ明ス、第十章、又性善人々コレアルコトヲ明ス、第十一章ヨリ第十七章迄ハ、皆人ノ惑ヲ醒ス、第十八章、前章人ノ惑ヲ云テ承ケテ、性善ノ遂ニ私欲ニ勝ツヲ云テ人ヲ勵マス、末二章、学問ノ目的ヲ立テ、全篇ノ結尾トス、反覆皆性善ノ二字ヨリ說出スナリ
新字:上章ニ五穀モ熟セサレハ荑稗ニ如カズト云タル故、柔懦ナル人ハ五穀ト云テハ余リ大造ナルコト故荑稗ニテ済スヘシト云者アランコトヲ恐レテ、又此二ツノ譬ヲ設クルナリ、射術ニテモ番匠ニテモ、初学ヨリ極詰ヲ以テ教ユルニ、却テ聖人ノ道ニ至テ中等下等ヲ以テ教ルノ義アランヤトナリ、程子ノ所謂第一等ヲ以テ別人ニ譲リ姑ク第二等ヲナスト云フコトナカレ、是即チ自棄ナリノ意ニテ、全篇性善ノ議論ノ帰結ナリ、告子上篇二十章、皆性善ヲ論ス、第六章迄ハ、正面ノ論ナリ、故ニ第六章ニ於テ、惻隠羞悪恭敬是非ノ説ニ及ヒ、性ノ善ナル所ヲ説尽スナリ、第四章第五章、合シテ一章トナシテ見ルヘシ、第七章ヨリ第九章迄ハ性善ナレトモ、不善ニ陥ル故ヲ明ス、第十章、又性善人々コレアルコトヲ明ス、第十一章ヨリ第十七章迄ハ、皆人ノ惑ヲ醒ス、第十八章、前章人ノ惑ヲ云テ承ケテ、性善ノ遂ニ私欲ニ勝ツヲ云テ人ヲ励マス、末二章、学問ノ目的ヲ立テ、全篇ノ結尾トス、反覆皆性善ノ二字ヨリ説出スナリ
書き下し
上章に五穀も熟せざれば荑稗に如かずと云ひたる故、柔懦なる人は五穀と云ひては余り大造なること故荑稗にて済ますべしと云ふ者あらんことを恐れて、又此の二つの譬を設くるなり。射術にても番匠にても、初学より極詰を以て教ゆるに、却つて聖人の道に至りて中等下等を以て教ふるの義あらんやとなり。程子の所謂「第一等を以て別人に譲り、姑く第二等をなすと云ふことなかれ、是れ即ち自棄なり」の意にて、全篇性善の議論の帰結なり。告子上篇二十章、皆性善を論ず。第六章までは、正面の論なり。故に第六章に於て、惻隠羞悪恭敬是非の説に及び、性の善なる所を説き尽すなり。第四章第五章、合して一章となして見るべし。第七章より第九章までは性善なれども、不善に陥る故を明かす。第十章、又性善人々之あることを明かす。第十一章より第十七章までは、皆人の惑を醒ます。第十八章、前章人の惑を云ふを承けて、性善の遂に私欲に勝つを云ひて人を励ます。末二章、学問の目的を立てて、全篇の結尾とす。反覆皆性善の二字より説き出すなり。
現代語訳
前の章で「五穀も熟さなければ稗にも及ばない」と言ったので、気の弱い人の中には、五穀などと言ってはあまりに大がかりだから、稗で済ませておこうと言う者が出るのを恐れて、さらにこの二つの喩えを設けたのである。弓の術でも大工の仕事でも、初心者にさえ最上の基準で教えるのに、かえって聖人の道になると中くらいや下の基準で教えるということがあろうか、という意味である。程子の言う「第一等を他人に譲り、自分はひとまず第二等をしようと言ってはならない。それこそ自ら投げ出すことだ」と同じ意味で、全篇の性善の議論の結びである。告子上篇の二十章は、みな性善を論じている。第六章までは正面からの論である。だから第六章で、惻隠・羞悪・恭敬・是非の説にまで及び、性の善いところを説き尽くしている。第四章と第五章は合わせて一章として見るべきである。第七章から第九章までは、性は善なのに不善に陥る理由を明らかにする。第十章は、また性善が誰にでもあることを明らかにする。第十一章から第十七章までは、みな人の迷いを覚ます。第十八章は、前の章で人の迷いを言ったのを受けて、性善がついには私欲に勝つことを言って人を励ます。末の二章は、学問の目的を立てて全篇の結びとしている。繰り返し、どれも性善の二字から説き出しているのである。
解説
この章句が説くこと
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『墨子』非儒下夫れ一に道術學業とは、仁義なり。昔、大にしては以て人を治め、小にしては以て官に任じ、逺くしては施し、用いては偏く、近くしては以て身を循む。不義には處らず、非理には行わず。務めて天下の利を興し、曲直周旋、利あれば則ち止まる。此れ君子の道なり。聞く所の孔丘の行いを以てすれば、則ち本より此と相い反謬するなり。
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『墨子』尚賢上是の故に古者、聖王の政を為すや言いて曰く、「義ならざれば富まさず、義ならざれば貴くせず、義ならざれば親しまず、義ならざれば近づけず」と。是を以て國の富貴の人、之を聞きて、皆な退きて謀りて曰く、「始め我が恃む所の者は富貴なり。今、上、義を舉ぐるに貧賤を辟けず。然らば則ち我れ義を為さざる可からず」と。親しき者、之を聞き、亦た退きて謀りて曰く、「始め我が恃む所の者は親なり。今、上、義を舉ぐるに親疎を辟けず。然らば則ち我れ義を為さざる可からず」と。近き者、之を聞き、亦た退きて謀りて曰く、「始め我が恃む所の者は近なり。今、上、義を舉ぐるに近を辟けず。然らば則ち我れ義を為さざる可からず」と。逺き者、之を聞き、亦た退きて謀りて曰く、「始め我れ逺きを以て恃む無しと為す。今、上、義を舉ぐるに逺きを辟けず。然らば則ち我れ義を為さざる可からず」と。逺鄙郊外の臣、門庭の庶子、國中の衆、四鄙の氓人に逮び至るまで、之を聞きて皆な競いて義を為す。
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