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童子問 / 卷下

問。先生以程子所謂論語孟子既治則六經可不治而明爲名言。如何。曰。二書猶權衡尺度乎。豈翅六經不治而明而已哉。雖諸子百家祕册奧牒。其是非得失。了了分明。自無所能遁其情。大抵學六經者。專以研究其名物度數訓詁異同爲事。雖博士之所掌亦然。非也。葢六經之學。在得其大意苟大意既明。則瑣瑣文義。固無補於道。置而勿論。學者苟熟讀二書。猶身坐堂上。辨堂下人曲直。其於天下之言。何不能辨折之有。

新字:問。先生以程子所謂論語孟子既治則六経可不治而明為名言。如何。曰。二書猶権衡尺度乎。豈翅六経不治而明而已哉。雖諸子百家秘册奥牒。其是非得失。了了分明。自無所能遁其情。大抵学六経者。専以研究其名物度数訓詁異同為事。雖博士之所掌亦然。非也。葢六経之学。在得其大意苟大意既明。則瑣瑣文義。固無補於道。置而勿論。学者苟熟読二書。猶身坐堂上。弁堂下人曲直。其於天下之言。何不能弁折之有。

書き下し

問ふ、先生、程子の所謂論語孟子既に治まれば則ち六経治めずして明らかなりと云ふを以て名言と為す。如何。曰く、二書は猶権衡尺度のごときか。豈に翅に六経治めずして明らかなるのみならんや。諸子百家の秘冊奥牒と雖も、其の是非得失、了了として分明にして、自ら能く其の情を遁るる所無し。大抵六経を学ぶ者、専ら其の名物度数・訓詁異同を研究するを以て事と為す。博士の掌る所と雖も亦然り。非なり。蓋し六経の学は、其の大意を得るに在り。苟も大意既に明らかならば、則ち瑣瑣たる文義は、固より道に補ひ無ければ、置いて論ずること勿れ。学者苟も二書を熟読せば、猶身は堂上に坐して、堂下の人の曲直を弁ずるがごとし。其の天下の言に於て、何ぞ弁折すること能はざること之れ有らん。

現代語訳

問う。先生は、程子の「論語・孟子がよく修まれば、六経は修めなくとも明らかになる」という言葉を名言とされる。どういうことか。答える。二書は秤や物差しのようなものだ。六経を修めなくとも明らかになるどころではない。諸子百家の秘蔵の書物であっても、その是非得失がはっきりと見分けられ、その実情を隠しおおせるものはない。おおよそ六経を学ぶ者は、もっぱら名称や制度・数量、字句の解釈や異同を研究することを仕事としている。博士が担当する学問でさえそうである。だがそれは誤りだ。六経の学はその大意をつかむことにある。大意がすでに明らかになれば、細々とした字句の意味はもともと道の助けにならないのだから、脇に置いて論じなくてよい。学ぶ者が二書を熟読すれば、自分は堂の上に座って、堂の下の人々の正邪を裁くようなものである。天下の言説について、どうして見分け裁けないことがあろうか。

解説

程子の言葉を引きつつ、仁斎は論語・孟子を「権衡尺度」すなわち秤と物差しにたとえる。二書が身につけば、六経に限らず諸子百家のどんな書も是非得失がはっきり見えるというのである。それに対して名物度数や訓詁の異同ばかりを追う学問は、道に資するところがないと退けられる。細部の考証そのものを否定するのではなく、大意をつかむことが先だという順序の問題である。仕事でも、資料の細部や数字の端数に没頭して、全体の目的を見失うことがある。まず判断の軸を自分の中に据えれば、膨大な情報も堂上から見下ろすように整理できる。

この章句が説くこと

論孟六経大意学問訓詁基準

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