墨子 / 非儒下
夫一道術學業,仁義也。昔大以治人,小以任官,逺施,用偏,近以循身,不義不處,非理不行,務興天下之利,曲直周旋,利則止,此君子之道也。以所聞孔丘之行,則本與此相反謬也。
新字:夫一道術学業,仁義也。昔大以治人,小以任官,遠施,用偏,近以循身,不義不処,非理不行,務興天下之利,曲直周旋,利則止,此君子之道也。以所聞孔丘之行,則本与此相反謬也。
書き下し
夫れ一に道術學業とは、仁義なり。昔、大にしては以て人を治め、小にしては以て官に任じ、逺くしては施し、用いては偏く、近くしては以て身を循む。不義には處らず、非理には行わず。務めて天下の利を興し、曲直周旋、利あれば則ち止まる。此れ君子の道なり。聞く所の孔丘の行いを以てすれば、則ち本より此と相い反謬するなり。
現代語訳
そもそも道と学問とは、一つに言えば仁義である。むかしは大きくは人を治め、小さくは官職を務め、遠くには及ぼし、用いるときは広く行き渡らせ、近くは自分の身を修めた。不義には身を置かず、道理でないことは行わず、努めて天下の利を起こし、曲がるも直るも回るも、利があるところで止める。これが君子の道である。ところが伝え聞く孔丘の行いは、もともとこれと正反対である。
解説
儒家個人への批判に入る前に、墨子自身の学問観を置きます。「務興天下之利、曲直周旋、利則止」——曲がっても回っても構わないが、利があるところで止める。基準を先に示してから相手を測るという運びは非命篇と同じで、ここから先は孔子の行いをその物差しに当てていくことになります。
この章句が説くこと
基準仁義利学問判断
関連する章句
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孫子・九地篇利に合いて動き、利に合わずして止まる。
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『墨子』尚賢上是の故に古者、聖王の政を為すや言いて曰く、「義ならざれば富まさず、義ならざれば貴くせず、義ならざれば親しまず、義ならざれば近づけず」と。是を以て國の富貴の人、之を聞きて、皆な退きて謀りて曰く、「始め我が恃む所の者は富貴なり。今、上、義を舉ぐるに貧賤を辟けず。然らば則ち我れ義を為さざる可からず」と。親しき者、之を聞き、亦た退きて謀りて曰く、「始め我が恃む所の者は親なり。今、上、義を舉ぐるに親疎を辟けず。然らば則ち我れ義を為さざる可からず」と。近き者、之を聞き、亦た退きて謀りて曰く、「始め我が恃む所の者は近なり。今、上、義を舉ぐるに近を辟けず。然らば則ち我れ義を為さざる可からず」と。逺き者、之を聞き、亦た退きて謀りて曰く、「始め我れ逺きを以て恃む無しと為す。今、上、義を舉ぐるに逺きを辟けず。然らば則ち我れ義を為さざる可からず」と。逺鄙郊外の臣、門庭の庶子、國中の衆、四鄙の氓人に逮び至るまで、之を聞きて皆な競いて義を為す。
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『墨子』法儀然らば則ち奚を以て治法を為して可ならんか。當に皆な其の父母に法らば奚若ん。天下の父母為る者は衆けれども、仁なる者は寡し。若し皆な其の父母に法らば、此の法は不仁なり。法、不仁なれば、以て法と為す可からず。當に皆な其の學に法らば奚若ん。天下の學を為す者は衆けれども、仁なる者は寡し。若し皆な其の學に法らば、此の法は不仁なり。法、不仁なれば、以て法と為す可からず。當に皆な其の君に法らば奚若ん。天下の君為る者は衆けれども、仁なる者は寡し。若し皆な其の君に法らば、此の法は不仁なり。法、不仁なれば、以て法と為す可からず。故に父母・學・君の三者は、以て治法と為す可き莫し。