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講孟余話 / 告子上 第十一章

或疑フ暴客人ヲ殺スモ亦心ニ出テサルハナシ、是仁ナリヤ、盜賊物ヲ盜ムモ行ニ非ルハナシ是義ナリヤ、云ク人ヲ殺スハ不仁ナリ、殺スノ心ハ必ス仁ナリ、仁ハ愛ヲ主トス、人ヲ愛スル己ヲ愛スル同シク仁ナリ、大氏人ヲ殺スハ身ヲ愛スルヨリ起ル、辱ヲ受テ怒レハ則チ人ヲ殺ス、悪ヲナシテ顕レンコトヲ畏レハ、人ヲ殺ス、或ハ吾カ愛スル人ノ爲ニ人ヲ殺スモアリ、要之愛ノ一字ヨリ出サルハナシ、若シ愛スル所ナクンハ、惡ム所ナク殺ス所ナシ、盜ハ不義ナリ、盜ヲ行フニハ義ヲ以テス、盜ト雖トモ、金帛ヲ盜テ自ラ利スルノミニ非ス、或ハ其同類ニ分チ、或ハ其妻子ヲ養ヒ、或ハ債責ヲ塞キ或ハ食貨ヲ賒ル、皆義ニ非ルハナシ、若シ義ナクンハ盜ムコトヲ要セス、彼ニ取ル所アレハ、此ニ與ル所アリ、一取一與、義ヨリ出サルハナシ、然トモ仁ノ人ヲ殺スニ至リ、義ノ物ヲ盜ムニ至ルハ、是亦、弗由不求ノ極ト云ヘシ、此極ニ於テ人心人路ヲ求メハ、仁義擧テ用ユヘカラズ、朱註ニ中庸ノ道不可須臾離ノ意ヲ取テ是ヲ解ス、尤モ親切ナリ、味フベシ、人有雞犬放、則知求之、說下章ニ見ユ、学問之道無他、求其放心而已矣、此語親切着実以テ加ルコトナシ、故ニ特ニ抄錄ス

新字:或疑フ暴客人ヲ殺スモ亦心ニ出テサルハナシ、是仁ナリヤ、盗賊物ヲ盗ムモ行ニ非ルハナシ是義ナリヤ、云ク人ヲ殺スハ不仁ナリ、殺スノ心ハ必ス仁ナリ、仁ハ愛ヲ主トス、人ヲ愛スル己ヲ愛スル同シク仁ナリ、大氏人ヲ殺スハ身ヲ愛スルヨリ起ル、辱ヲ受テ怒レハ則チ人ヲ殺ス、悪ヲナシテ顕レンコトヲ畏レハ、人ヲ殺ス、或ハ吾カ愛スル人ノ為ニ人ヲ殺スモアリ、要之愛ノ一字ヨリ出サルハナシ、若シ愛スル所ナクンハ、悪ム所ナク殺ス所ナシ、盗ハ不義ナリ、盗ヲ行フニハ義ヲ以テス、盗ト雖トモ、金帛ヲ盗テ自ラ利スルノミニ非ス、或ハ其同類ニ分チ、或ハ其妻子ヲ養ヒ、或ハ債責ヲ塞キ或ハ食貨ヲ賒ル、皆義ニ非ルハナシ、若シ義ナクンハ盗ムコトヲ要セス、彼ニ取ル所アレハ、此ニ与ル所アリ、一取一与、義ヨリ出サルハナシ、然トモ仁ノ人ヲ殺スニ至リ、義ノ物ヲ盗ムニ至ルハ、是亦、弗由不求ノ極ト云ヘシ、此極ニ於テ人心人路ヲ求メハ、仁義挙テ用ユヘカラズ、朱註ニ中庸ノ道不可須臾離ノ意ヲ取テ是ヲ解ス、尤モ親切ナリ、味フベシ、人有鶏犬放、則知求之、説下章ニ見ユ、学問之道無他、求其放心而已矣、此語親切着実以テ加ルコトナシ、故ニ特ニ抄録ス

書き下し

或ひと疑ふ、暴客人を殺すも亦心に出でざるはなし、是れ仁なりや。盗賊物を盗むも行に非ざるはなし、是れ義なりや。云く、人を殺すは不仁なり。殺すの心は必ず仁なり。仁は愛を主とす。人を愛する、己を愛する同じく仁なり。大抵人を殺すは身を愛するより起る。辱を受けて怒れば則ち人を殺す。悪をなして顕れんことを畏るれば、人を殺す。或は吾が愛する人の為に人を殺すもあり。之を要するに愛の一字より出でざるはなし。若し愛する所なくんば、悪む所なく殺す所なし。盗は不義なり。盗を行ふには義を以てす。盗と雖も、金帛を盗みて自ら利するのみに非ず。或は其の同類に分ち、或は其の妻子を養ひ、或は債責を塞ぎ、或は食貨を賒る。皆義に非ざるはなし。若し義なくんば盗むことを要せず。彼に取る所あれば、此に与ふる所あり。一取一与、義より出でざるはなし。然れども仁の人を殺すに至り、義の物を盗むに至るは、是れ亦「由らず求めず」の極と云ふべし。此の極に於て人心人路を求めば、仁義挙げて用ゆべからず。朱註に中庸の「道は須臾も離るべからず」の意を取りて是を解す。尤も親切なり、味ふべし。人鶏犬の放るる有れば、則ち之を求むることを知る、説下章に見ゆ。「学問の道は他無し、其の放心を求むるのみ」。此の語親切着実以て加ふることなし。故に特に抄録す。

現代語訳

ある人が疑問を出した。「乱暴者が人を殺すのも心から出たことだ。これも仁なのか。盗人が物を盗むのも行いである。これも義なのか」。私は答えた。人を殺すことは不仁である。しかし殺そうとする心は、きっと仁から出ている。仁は愛を中心とする。人を愛するのも、自分を愛するのも同じく仁である。たいてい人を殺すのは、わが身を愛することから起こる。辱めを受けて怒れば人を殺す。悪事がばれるのを恐れて人を殺す。あるいは自分の愛する人のために人を殺すこともある。要するに、愛の一字から出ないものはない。もし愛するものがなければ、憎むものもなく、殺すこともない。盗みは不義である。しかし盗みを行うのにも義が働いている。盗人でも、金や絹を盗んで自分を利するだけではない。仲間に分けたり、妻子を養ったり、借金を返したり、食べ物を掛けで買ったりする。どれも義でないものはない。もし義がなければ盗む必要もない。あちらから取るのは、こちらへ与えるためである。一つ取り一つ与える、どれも義から出ている。けれども仁が人を殺すところまで行き、義が物を盗むところまで行くのは、まさに「道に由らず、心を探し求めない」ことの極みというべきである。この極みにあって人の心と人の道を探し求めれば、仁も義もすべて使いものにならない。朱子の注は『中庸』の「道は片時も離れてはならない」の意を取ってここを解いている。最もよく行き届いている。味わうべきである。「人は鶏や犬が逃げれば探すことを知っている」、その説明は次の章に見える。「学問の道はほかでもない、見失った心を探し求めることだけである」。この言葉ほど行き届いて着実なものはない。だから特に書き抜いておく。

解説

人を殺す心も仁から出るのか、という問いに、松陰は正面から答えます。殺人の多くは自分や身内への愛が歪んだもので、盗みにも仲間や家族を養うという義が働いている。だからこそ、それは道に由らず心を探さないことの極みなのだと言います。そして孟子の「学問の道は他無し、其の放心を求むるのみ」を、これ以上なく着実な言葉として書き抜きます。学問とは知識を増やすことではなく、どこかへ行ってしまった自分の本心を取り戻すことだという、松陰の学問観の核心がよく表れています。

この章句が説くこと

放心学問仁義本心

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