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講孟余話 / 告子上 第十章

又豐臣德川二氏取合ノ時、德川氏ノ將石川数正ハ、豐臣ヨリ八万石ヲ與ヘントテ誘カレシニ誑カレ、參河ヲ駈落シテ大坂ニ往キタレトモ、豐臣ニハ至テ手輕ク會釈レタル故、数正ハ大ニ差縮シテ門ヲモ出得サリシトソ、其後両家和睦調ヒ、德川氏上洛ノ時、豐臣公ヨリ石川ガ謁見ヲ許サレンコトヲ德川公ニ請レ、又井伊直政事アリテ大坂ヘ使ニ往キ、直政ヘ饗應ノ時モ石川ヲ接件トセラル、饗應ノ終ルマテ一言モ数正ト辞ヲ交ヘズ、数正ヲ指シ、衆人へ彼ハ人面獸心ナル奴ナリト云ハレシトソ、賈呂数正當日ノ心ヲ推スニ、其羞愧イカヽヤアラン、是程ノ羞愧ヲ忍ンヨリハ、一刀ノ下ニ義ニ死スルノ心快キニ如ンヤ、一死ヲ快スレハ名ヲ後世ニ揚ケ一義ヲ闕ケバ羞ヲ終身ニ荷フ、况ヤ義ヲ行フ者未タ必シモ悉ク死且亡ヒサルヲヤ、若シ然ラスト云ハヽ、何ソ仰テ堂々タル近江国犬上郡彥根城三十五万石ノ大藩翰ヲ見サルヤ

新字:又豊臣徳川二氏取合ノ時、徳川氏ノ将石川数正ハ、豊臣ヨリ八万石ヲ与ヘントテ誘カレシニ誑カレ、参河ヲ駈落シテ大坂ニ往キタレトモ、豊臣ニハ至テ手軽ク会釈レタル故、数正ハ大ニ差縮シテ門ヲモ出得サリシトソ、其後両家和睦調ヒ、徳川氏上洛ノ時、豊臣公ヨリ石川ガ謁見ヲ許サレンコトヲ徳川公ニ請レ、又井伊直政事アリテ大坂ヘ使ニ往キ、直政ヘ饗応ノ時モ石川ヲ接件トセラル、饗応ノ終ルマテ一言モ数正ト辞ヲ交ヘズ、数正ヲ指シ、衆人へ彼ハ人面獣心ナル奴ナリト云ハレシトソ、賈呂数正当日ノ心ヲ推スニ、其羞愧イカヽヤアラン、是程ノ羞愧ヲ忍ンヨリハ、一刀ノ下ニ義ニ死スルノ心快キニ如ンヤ、一死ヲ快スレハ名ヲ後世ニ揚ケ一義ヲ闕ケバ羞ヲ終身ニ荷フ、況ヤ義ヲ行フ者未タ必シモ悉ク死且亡ヒサルヲヤ、若シ然ラスト云ハヽ、何ソ仰テ堂々タル近江国犬上郡彦根城三十五万石ノ大藩翰ヲ見サルヤ

書き下し

又豊臣徳川二氏取合ひの時、徳川氏の将石川数正は、豊臣より八万石を与へんとて誘かれしに誑かされ、三河を駈け落ちして大坂に往きたれども、豊臣には至つて手軽く会釈れたる故、数正は大いに差縮みて門をも出得ざりしとぞ。其の後両家和睦調ひ、徳川氏上洛の時、豊臣公より石川が謁見を許されんことを徳川公に請はれ、又井伊直政事ありて大坂へ使に往き、直政へ饗応の時も石川を接伴とせらる。饗応の終るまで一言も数正と辞を交へず、数正を指し、衆人へ彼は人面獣心なる奴なりと云はれしとぞ。賈・呂・数正当日の心を推すに、其の羞愧いかがやあらん。是れ程の羞愧を忍ばんよりは、一刀の下に義に死するの心快きに如かんや。一死を快くすれば名を後世に揚げ、一義を闕けば羞を終身に荷ふ。況んや義を行ふ者未だ必ずしも悉く死し且つ亡びざるをや。若し然らずと云はば、何ぞ仰いで堂々たる近江国犬上郡彦根城三十五万石の大藩翰を見ざるや。

現代語訳

また豊臣と徳川の両家が争ったとき、徳川方の将石川数正は、豊臣から八万石を与えると誘われてだまされ、三河を出奔して大坂へ行った。ところが豊臣にはごく軽くあしらわれたので、数正はすっかり縮こまり、門の外にも出られなかったという。その後両家の和睦が整い、徳川家康が上洛したとき、豊臣秀吉は石川に会ってやってほしいと家康に頼んだ。また井伊直政が用事で大坂へ使いに行き、直政をもてなす席でも石川が接待役に付けられた。直政はもてなしが終わるまで数正と一言も言葉を交わさず、数正を指さして、皆に「あれは人の顔をした獣の心の奴だ」と言ったという。賈余慶・呂文煥・石川数正のその日の心を推し量れば、その恥ずかしさはいかばかりであったろう。これほどの恥を忍ぶよりは、一太刀のもとに義に死ぬほうが、どれほど心がさわやかであろうか。一つの死を潔くすれば名を後世に残し、一つの義を欠けば恥を一生背負う。まして義を行う者が、必ずしもみな死に、滅びるわけでもないのだ。もしそうでないと言うなら、どうして近江国犬上郡、彦根城三十五万石という堂々たる大藩(井伊家)を仰ぎ見ないのか。

解説

続けて松陰は日本の例を挙げます。家康の重臣石川数正は秀吉のもとへ出奔しましたが、軽く扱われて肩身の狭い思いをし、井伊直政には人面獣心とまで言われたと伝えられます。松陰は、裏切った者が一生背負う恥を思えば、義に死ぬほうがはるかに心が晴れると言い、さらに義を貫いた者が必ず滅びるわけではないと、徳川に忠義を尽くして彦根三十五万石の大藩となった井伊家を示します。目先の得のために信義を捨てることの重さを、具体的な人物で実感させようとする語り口です。

この章句が説くこと

信義恥裏切り義井伊家

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