言志四録 / 言志耋録 第百三十条 足るを知るの足る
知足之足。常足矣。庶乎仁。無恥之恥。無恥矣。庶乎義。
書き下し
足るを知るの足るは、常に足る。仁に庶からん。恥無きを之れ恥づれば、恥無し。義に庶からん。
現代語訳
足ることを知って得る満足は、いつまでも満ち足りている。これは仁に近い。恥を知らないことを恥じるならば、恥ずべきことはなくなる。これは義に近い。
解説
前半は『老子』の「足るを知るの足るは常に足る」、後半は『孟子』尽心上の「恥無きを之れ恥づれば恥無し」を踏まえ、それぞれを仁と義に結びつけた一条です。道家と儒家の言葉を並べるところに、学派の枠にこだわらない一斎の読み方がうかがえます。足るを知る心は、奪い合わずに人と分かち合う余裕を生むので仁に近く、恥を知る心は、自分の行いに筋を通させるので義に近いというのでしょう。満足と恥という、内側の感覚の持ち方が徳の土台になっています。成果や評価を追い続けて疲れたとき、自分の中の「足る」と「恥」の基準がどこにあるかを見直す手がかりになる一条です。
この章句が説くこと
知足恥仁義心術
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『武士道』第八章 名譽・恥を知るは諸徳の原たとひ微小なりとも、創を蒙らんことは我が願ふ所にあらず』と。白石の既に少年の日に当り、いやしくも節を屈し、恥を負ふの事を甘んじ、以て畢生の大創を蒙り、敢て其天分を壊り、品性を害することを肯ぜざりしもの、実に士たるの本懐を吐露して違はざりしものと謂ふべし。孟子が『羞悪の心は義の端なり』と教へてより後、二千年にして、カーライルは殆ど同義の弁をなして曰へり。『恥を知るは、諸徳の原、良容善行の根なり』と。武士は恥を恐るること甚だしきものありき。我国文学は、シェイクスピアがノーフォークの口に上ぼせたるが如き雄弁なる詞句を有せざれど、なお恥を恐るるの念は、武士の頭上に懸れるダモクレスの剣なりき。然り、恥を恐るるは大に可なり。されど其の過ぐるや、往々病的なる性質を帯ぶることなきにあらず。
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言志四録・言志耋録 第二十三条 恥無きを恥づ立志の工夫は、須らく羞悪の念頭より跟脚を起こすべし。恥づべからざるを恥づること勿れ。恥づべきを恥ぢざること勿れ。孟子謂ふ、「恥無きを之れ恥づれば、恥無し」と。志是に於てか立つ。
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『慎思録』巻之六聖賢と残賊と、其の人既に没すと雖も、善悪の芳穢、千載に流れて休まず。人の一身は、豈に生前百年血肉の躯に止まらんや。抑々身後千歳毀誉する所の美悪も、亦是れ其の身分内の事と為すべし。然らば則ち何ぞ聖愚同じく腐りて余り無しと謂はんや。古人の詩に曰く、秦檜の悪名は千古臭く、岳王の忠節は万年芳しと。謝枋得の詩に云ふ、人生の芳穢は千歳有り、世上の栄枯は百年無しと。此れ皆身後の汚名の恥づべきを言ふなり。若し身後の汚名を恥ぢずんば、則ち大節に臨みて苟免し、生を偸み義に背き、何の至らざることか之有らん。此くの如くにして身を没する者は、禽獣と何ぞ異ならんや。古人の詩に曰く、孔丘も盗跖も倶に塵埃と。是れ豈に名教に害有るの言に非ずや。
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司馬法・仁本古者(いにしえ)は仁を以て本と為し、義を以てこれを治め、これを治めて正と為す。
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