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講孟余話 / 告子上 第九章

使変秋誨二人奕、此喩甚タ的切ナリ、再三反復シテ以テ志ヲ勵スヘシ、韓文公符読書城南一ノ詩ニ、両家各生子、提孩巧相如、云々トアルハ、学フト学ハサルトニ就テ、初ハ同樣ナル人物ノ、一ハ龍トナリ、一ハ豬トナルコトヲ云フ、此喩ハ同シク学フ内ニ就テ、心ヲ專ニスルト否ラサルトニ因テ、一ハ巧トナリ、一ハ拙トナルコトヲ云、併セ考フヘシ、抑余是ニ由テ遊学ノ益アルコトヲ知ル、今萩中学ニ志ス者何ソ限リアラン、然トモ俗事紛冗、東奔西走、日夜已ムコトナシ、其閑ヲ以テ書ヲ読ミ道ヲ講ス、故ニ心志專一ナラス、機脉貫通セズ、何ソ成就スルコトヲ得ン、断然國ヲ出テ游学ヲナス如キハ、俗事ヲ排去シ、学事ノ外門ヲ出テズ、人ニ接セサルコトヲ得、是ヲ以テ心專ラニ志致シテ、学モ亦進ムコト百陪スルナリ、或云ク、入テハ孝出テハ弟、暇日ヲ以テ孝悌忠信ヲ脩ム、皆学ニ非ルハナシ、且遊学シテ花柳ニ戯レ詩酒ニ狂シ、以テ光陰ヲ費ス者亦衆シ、未タ游学ノ益タルヲ知ラズト、云ク、世固リ之アリ、然トモ花柳詩酒ニ陷ル如キハ眞ニ道ニ志ス者ノ必ズ暇ラサル所ナリ、又今ノ俗事ハ孝悌忠信ノ義ニモ非サル者多シ、要之專ト云、致ト云学問ノ工夫爰ニアリ

新字:使変秋誨二人奕、此喩甚タ的切ナリ、再三反復シテ以テ志ヲ励スヘシ、韓文公符読書城南一ノ詩ニ、両家各生子、提孩巧相如、云々トアルハ、学フト学ハサルトニ就テ、初ハ同様ナル人物ノ、一ハ竜トナリ、一ハ豬トナルコトヲ云フ、此喩ハ同シク学フ内ニ就テ、心ヲ専ニスルト否ラサルトニ因テ、一ハ巧トナリ、一ハ拙トナルコトヲ云、併セ考フヘシ、抑余是ニ由テ遊学ノ益アルコトヲ知ル、今萩中学ニ志ス者何ソ限リアラン、然トモ俗事紛冗、東奔西走、日夜已ムコトナシ、其閑ヲ以テ書ヲ読ミ道ヲ講ス、故ニ心志専一ナラス、機脉貫通セズ、何ソ成就スルコトヲ得ン、断然国ヲ出テ游学ヲナス如キハ、俗事ヲ排去シ、学事ノ外門ヲ出テズ、人ニ接セサルコトヲ得、是ヲ以テ心専ラニ志致シテ、学モ亦進ムコト百陪スルナリ、或云ク、入テハ孝出テハ弟、暇日ヲ以テ孝悌忠信ヲ脩ム、皆学ニ非ルハナシ、且遊学シテ花柳ニ戯レ詩酒ニ狂シ、以テ光陰ヲ費ス者亦衆シ、未タ游学ノ益タルヲ知ラズト、云ク、世固リ之アリ、然トモ花柳詩酒ニ陥ル如キハ真ニ道ニ志ス者ノ必ズ暇ラサル所ナリ、又今ノ俗事ハ孝悌忠信ノ義ニモ非サル者多シ、要之専ト云、致ト云学問ノ工夫爰ニアリ

書き下し

弈秋をして二人に弈を誨へしむ。此の喩甚だ的切なり。再三反復して以て志を励ますべし。韓文公の符読書城南の詩に、「両家各子を生む、提孩巧みに相如たり」云々とあるは、学ぶと学ばざるとに就きて、初めは同様なる人物の、一は龍となり、一は豬となることを云ふ。此の喩は同じく学ぶ内に就きて、心を専らにすると否らざるとに因りて、一は巧となり、一は拙となることを云ふ。併せ考ふべし。抑々余是に由りて遊学の益あることを知る。今萩中学に志す者何ぞ限りあらん。然れども俗事紛冗、東奔西走、日夜已むことなし。其の閑を以て書を読み道を講ず。故に心志専一ならず、機脈貫通せず、何ぞ成就することを得ん。断然国を出でて遊学をなす如きは、俗事を排去し、学事の外門を出でず、人に接せざることを得。是を以て心専らに志致して、学も亦進むこと百倍するなり。或ひと云く、「入りては孝、出でては弟、暇日を以て孝悌忠信を修む、皆学に非ざるはなし。且つ遊学して花柳に戯れ詩酒に狂し、以て光陰を費やす者亦衆し。未だ遊学の益たるを知らず」と。云く、世固より之あり。然れども花柳詩酒に陥る如きは真に道に志す者の必ず暇あらざる所なり。又今の俗事は孝悌忠信の義にも非ざる者多し。之を要するに専と云ひ、致と云ふ、学問の工夫爰にあり。

現代語訳

「碁の名人弈秋に二人の弟子を教えさせる」。この喩えはまことに的確である。何度も繰り返して読み、志を励ますべきである。韓愈の「符読書城南」の詩に「二つの家にそれぞれ子が生まれ、幼いうちは同じように利発だった」云々とあるのは、学ぶか学ばないかによって、初めは同じような者が、一人は龍となり、一人は豚となることを言っている。この喩えは、同じく学ぶ者の中で、心を一つにするかしないかによって、一人は上手になり、一人は下手になることを言っている。併せて考えるべきである。そもそも私はこれによって、遊学に益があることを知った。今、萩で学問に志す者は数え切れない。しかし世間の用事が入り乱れ、東奔西走して、日夜休む間もない。そのわずかな暇に書を読み道を講じる。だから心と志が一つにならず、筋道が通らない。どうして成し遂げられようか。思い切って国を出て遊学するなら、世間の用事を払いのけ、学問のほかには門を出ず、人と会わずにすむ。それで心を一つにして志を尽くし、学問も百倍進むのである。ある人が言った。「家にあっては孝、外では悌、暇な日に孝悌忠信を修める。どれも学問でないものはない。それに遊学して色街に遊び、詩と酒に溺れて時を費やす者も多い。遊学が益になるとは思えない」と。私は答えた。世にはもちろんそういう者もいる。しかし色街や詩酒に溺れることなど、本当に道に志す者には必ずその暇がないことだ。それに今の世間の用事は、孝悌忠信にかなわないものが多い。要するに「専」(一つにする)と「致」(尽くす)、学問の工夫はここにある。

解説

孟子は、同じ名人に囲碁を習っても、一人は一心に聞き、一人は鴻鵠を射ることを考えていれば上達に差がつくと説きました。松陰は韓愈の詩と比べ、学ぶか否かではなく、学ぶ中で心を専らにするかどうかが分かれ目だと整理します。そこから、雑事に追われる萩を離れて遊学する益を説き、遊学先で遊びに溺れる者もいるという反論には、本当に志す者にその暇はないと答えます。学ぶ環境を自分で選び取ることの大切さを、自身の江戸遊学の経験も重ねて語っているように読めます。

この章句が説くこと

専心遊学学問環境志

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