講孟余話 / 告子上 第八章
以爲未嘗有才焉者、才ノ字、前ノ第六章、非才之罪也、又不能尽其才者也、第七章、非天之降才爾殊也、及此才ト、皆同義ニシテ才能才藝ノ才ニ非ス、說文ニ才ヲ說テ云ク、草木之初也、从丨上貫一、將生枝葉一地也ト、此說ヲ以テ是ヲ解スル甚妙ナリ、盖シ所謂才トハ即性ニシテ、其発見セントスル所ニ就テ云フ、草木ノ初テ枝葉ヲ生セントスルカ如シ、故ニ性ノ発シテ情トナラントスル所ヲ指テ云フナリ、朱註ニハ才猶材質ト云フ、是ハ六書正譌ニ、才、木質也、在地爲木、既伐爲才、象其枝根斬伐之餘、从木省、別作材非、トアルニ依ルナリ、然ル時ハ卽チ性ノ材質ニシテ、性ト云ト異ナルコトナシ、說文ノ說ノ発生ノ意アルニ非カズ
新字:以為未嘗有才焉者、才ノ字、前ノ第六章、非才之罪也、又不能尽其才者也、第七章、非天之降才爾殊也、及此才ト、皆同義ニシテ才能才芸ノ才ニ非ス、説文ニ才ヲ説テ云ク、草木之初也、从丨上貫一、将生枝葉一地也ト、此説ヲ以テ是ヲ解スル甚妙ナリ、盖シ所謂才トハ即性ニシテ、其発見セントスル所ニ就テ云フ、草木ノ初テ枝葉ヲ生セントスルカ如シ、故ニ性ノ発シテ情トナラントスル所ヲ指テ云フナリ、朱註ニハ才猶材質ト云フ、是ハ六書正譌ニ、才、木質也、在地為木、既伐為才、象其枝根斬伐之余、从木省、別作材非、トアルニ依ルナリ、然ル時ハ即チ性ノ材質ニシテ、性ト云ト異ナルコトナシ、説文ノ説ノ発生ノ意アルニ非カズ
書き下し
「以て未だ嘗て才有らずと為す者」。才の字、前の第六章「才の罪に非ざるなり」、又「其の才を尽くすこと能はざる者なり」、第七章「天の才を降すこと爾く殊なるに非ざるなり」、及び此の才と、皆同義にして才能才芸の才に非ず。説文に才を説きて云く、「草木の初めなり。丨の上一を貫くに从ふ、将に枝葉を生ぜんとす。一は地なり」と。此の説を以て是を解する甚だ妙なり。蓋し所謂才とは即ち性にして、其の発見せんとする所に就きて云ふ。草木の初めて枝葉を生ぜんとするが如し。故に性の発して情とならんとする所を指して云ふなり。朱註には「才は猶ほ材質のごとし」と云ふ。是は六書正譌に「才は木の質なり。地に在るを木と為し、既に伐りたるを才と為す。其の枝根斬伐の余を象る。木の省に从ふ。別に材に作るは非なり」とあるに依るなり。然る時は即ち性の材質にして、性と云ふと異なることなし。説文の説の発生の意あるに如かず。
現代語訳
「(はげ山を見て、山には)もともと才がなかったと思う者」。この才の字は、前の第六章の「(不善をなすのは)才の罪ではない」、また「その才を尽くせない者である」、第七章の「天が才を降すのはそのように違うのではない」、そしてここの才と、みな同じ意味で、才能・才芸の才ではない。『説文解字』は才を説明して「草木の初めである。縦の棒が横の一を貫く形で、これから枝葉を生じようとしている。一は地である」と言う。この説でこれを解釈するのはたいへん巧みである。思うに、いわゆる才とは性のことで、それが現れ出ようとするところについて言うのである。草木がはじめて枝葉を生じようとするようなものだ。だから性が動いて情になろうとするところを指して言うのである。朱子の注は「才はちょうど材質のようなものだ」と言う。これは『六書正譌』に「才は木の質である。地にあるものを木とし、伐ったものを才とする。その枝や根を切った残りの形をかたどる。木を略した字形による。別に材と書くのは誤りである」とあるのにもとづいている。そうなると性の材質ということになり、性と言うのと違いがない。『説文』の説に芽生えの意味があるのに及ばない。
解説
この章句が説くこと
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