論語 / 子罕篇
子曰:「苗而不秀者,有矣夫!秀而不實者,有矣夫!」
新字:子曰:「苗而不秀者,有矣夫!秀而不実者,有矣夫!」
書き下し
子曰く、苗にして秀でざる者有るかな。秀でて実らざる者有るかな。
現代語訳
先生がおっしゃった。「芽は出たのに花が咲かないものがある。花は咲いたのに実を結ばないものがある。」
解説
植物の三段階に、人の成長を重ねている。芽、花、実。どの段階でも止まりうる、という観察である。嘆きの調子があるので、これも顔回を悼んだ言葉だとする読みもある。いずれにせよ、成長は途中で止まるのが常であり、最後まで至るものは少ないという冷静な認識がここにある。人材育成の現場では、この三段階の区別が実用的になる。芽が出た段階、つまり素質が見えた段階で期待をかけすぎる例は多い。花が咲いた段階、つまり目立つ成果を出した段階で完成したと見なす例も多い。だが実がなるまでは分からない。実とは、その人の働きが他の人や次の世代に受け継がれる形になることだろう。咲かせるところまでは支援でできるが、実らせるのは本人の時間である。
この章句が説くこと
成長段階苗秀実育成途上
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