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講孟余話 / 告子上 第九章

無或乎王之不智也、一日暴之、十日寒之、未有能生者也、此章ノ義、又滕文公下篇第六章、莊獄ニ置クノ喩、薜居州ノ事ト、併セ考ヘテ其義尤モ明ナリ、家兄伯教云ク、人君タルモ亦大艱ト云ヘシ、群臣数十百人日夜思惟シ、何カ一事君公ノ意ニ投シ歡ニ供センコトヲ謀ル、少シク声色ニ顕ルゝ者アレハ、小人ノ逢迎至ラサル所ナシ、一築造ノ役、一玩噐ノ製ヨリ、声色狗馬ニ至ルマテ、皆然ラサルコトナシ、而シテ人君坐ナカラ其奉承ヲ受ル、凢情ニ在テハ愉快ト思フヘシ、而シテ超然惑ハサルコト、我今公ノ如キハ、実ニ剛明ノ資ト云モ恐多キコトナリト、

新字:無或乎王之不智也、一日暴之、十日寒之、未有能生者也、此章ノ義、又滕文公下篇第六章、荘獄ニ置クノ喩、薜居州ノ事ト、併セ考ヘテ其義尤モ明ナリ、家兄伯教云ク、人君タルモ亦大艱ト云ヘシ、群臣数十百人日夜思惟シ、何カ一事君公ノ意ニ投シ歓ニ供センコトヲ謀ル、少シク声色ニ顕ルゝ者アレハ、小人ノ逢迎至ラサル所ナシ、一築造ノ役、一玩噐ノ製ヨリ、声色狗馬ニ至ルマテ、皆然ラサルコトナシ、而シテ人君坐ナカラ其奉承ヲ受ル、凢情ニ在テハ愉快ト思フヘシ、而シテ超然惑ハサルコト、我今公ノ如キハ、実ニ剛明ノ資ト云モ恐多キコトナリト、

書き下し

王の智ならざるを或しむこと無かれ。一日之を暴め、十日之を寒さば、未だ能く生ずる者有らざるなり。此の章の義、又滕文公下篇第六章、荘嶽に置くの喩、薛居州の事と、併せ考へて其の義尤も明なり。家兄伯教云く、人君たるも亦大艱と云ふべし。群臣数十百人日夜思惟し、何か一事君公の意に投じ歓に供せんことを謀る。少しく声色に顕るる者あれば、小人の逢迎至らざる所なし。一築造の役、一玩器の製より、声色狗馬に至るまで、皆然らざることなし。而して人君坐ながら其の奉承を受く。凡情に在りては愉快と思ふべし。而して超然として惑はざること、我が今公の如きは、実に剛明の資と云ふも恐れ多きことなりと。

現代語訳

「王が賢くないのを不思議に思うことはない。一日日に当てて温めても、十日冷やせば、育つものなど一つもない」。この章の意味は、滕文公下篇第六章の、子を斉の荘嶽の町に置いて斉語を学ばせる喩えや、薛居州の話と併せて考えると、いっそうはっきりする。兄の伯教(杉梅太郎)はこう言った。「君主というのも大変なものだ。家臣数十人、百人が日夜考えをめぐらし、何か一つでも殿の気に入り、喜ばせることはないかと狙っている。少しでも好みが顔色や言葉に出れば、小人どもがこぞって迎合する。建物一つの造営、器物一つの細工から、歌舞音曲や犬馬の遊びに至るまで、みなそうである。そして君主は座ったままそれを受ける。普通の人の情なら愉快だと思うだろう。それなのに超然として惑わされないところなど、わが今の殿(藩主毛利敬親)は、まことに剛明の資質と申すのも恐れ多いほどである」と。

解説

孟子は、斉王が賢くならないのは、自分が王のそばにいるのはわずかで、冷やす者が大勢いるからだと嘆きました。松陰はこの章を、君主を取り巻く誘惑の問題として読みます。兄の杉梅太郎は、家臣たちが殿の好みを探り、少しでも表に出れば一斉に迎合すると語り、それに動じない藩主毛利敬親を称えました。上に立つ人の小さな好みが、周りの振る舞いを大きく動かす。組織で人の上に立つ人が、自分の何気ない一言や好みが持つ重さを考えるきっかけになる一節です。

この章句が説くこと

君主迎合誘惑剛明上に立つ

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