講孟余話 / 告子上 第七章
謂、理也、義也、此一句是全章ノ落着スル処ナリ、心ヲ付ベシ、理義之悅我心、猶芻豢之悅我口、程子曰、此語親切有味、須実体察得理義之悅心、眞猶芻豢之悅口始得、余謂ラク本文程說、並ニ親切ト云ヘシ、試ニ余カ体察得スル所ヲ說ン、余理義ニ固ヨリ敢テ自ラ得ル所アリト云ハス、然トモ好テ書ヲ読ミ、最モ古昔忠臣孝子義人烈婦ノ事ヲ悅フ、朝起テヨリ夜寢ルマテ、兀々孜々トシテ、且読ミ且抄シ、或ハ感シテ泣キ、或ハ喜テ躍リ、自ラ已ムコト能ハズ、此樂中々他ニ比較スヘキ者アルヲ覚ヘス、况ヤ更ニ良友ヲ得テ奬勵切磋シ、肝膽ヲ吐露シ、互ニ天下ノ大計ヲ論シ、身ヲ以テ大難至險ニ當ラントスルニ當テ、滿心ノ愉快比スヘキ者ナシ、此樂到ル所居ル所吾ト相隨ハサルハナシ、過ル者ハ追思シテ之ヲ樂ミ、來ル者ハ豫算シテ樂ムヘシ、今美肉嘉肴アリト云トモ、一飽餘復タ顧ルニ意ナシ、麥飯菜羹ト云トモ一日三食スレハ復タ求ル者ナシ、且理義ノ樂胸中ニ充溢スルニ方テハ、孔子ノ所謂肉味ヲ知ラサル如キ者アリ、盖シ飢テ食ヲ忘レ、渴シテ飮ヲ忘レ、寒シテ衣ヲ忘レ寢テ寐ヲ忘ルヽ者、是ヨリ甚シキハナシ、是レ余ガ自心体察得スル所ナリ、故ニ余断シテ云ク、理義之悅我心非芻豢之可比也、
新字:謂、理也、義也、此一句是全章ノ落着スル処ナリ、心ヲ付ベシ、理義之悦我心、猶芻豢之悦我口、程子曰、此語親切有味、須実体察得理義之悦心、真猶芻豢之悦口始得、余謂ラク本文程説、並ニ親切ト云ヘシ、試ニ余カ体察得スル所ヲ説ン、余理義ニ固ヨリ敢テ自ラ得ル所アリト云ハス、然トモ好テ書ヲ読ミ、最モ古昔忠臣孝子義人烈婦ノ事ヲ悦フ、朝起テヨリ夜寝ルマテ、兀々孜々トシテ、且読ミ且抄シ、或ハ感シテ泣キ、或ハ喜テ躍リ、自ラ已ムコト能ハズ、此楽中々他ニ比較スヘキ者アルヲ覚ヘス、況ヤ更ニ良友ヲ得テ奨励切磋シ、肝胆ヲ吐露シ、互ニ天下ノ大計ヲ論シ、身ヲ以テ大難至険ニ当ラントスルニ当テ、満心ノ愉快比スヘキ者ナシ、此楽到ル所居ル所吾ト相随ハサルハナシ、過ル者ハ追思シテ之ヲ楽ミ、来ル者ハ予算シテ楽ムヘシ、今美肉嘉肴アリト云トモ、一飽余復タ顧ルニ意ナシ、麦飯菜羹ト云トモ一日三食スレハ復タ求ル者ナシ、且理義ノ楽胸中ニ充溢スルニ方テハ、孔子ノ所謂肉味ヲ知ラサル如キ者アリ、盖シ飢テ食ヲ忘レ、渇シテ飲ヲ忘レ、寒シテ衣ヲ忘レ寝テ寐ヲ忘ルヽ者、是ヨリ甚シキハナシ、是レ余ガ自心体察得スル所ナリ、故ニ余断シテ云ク、理義之悦我心非芻豢之可比也、
書き下し
「謂ふ、理なり、義なり」。此の一句是れ全章の落着する処なり、心を付くべし。「理義の我が心を悦ばすは、猶ほ芻豢の我が口を悦ばすがごとし」。程子曰く、「此の語親切にして味有り。須らく実に理義の心を悦ばすこと、真に猶ほ芻豢の口を悦ばすがごとくなるを体察し得て始めて得べし」と。余謂へらく、本文・程説、並びに親切と云ふべし。試みに余が体察し得る所を説かん。余理義に固より敢へて自ら得る所ありと云はず。然れども好みて書を読み、最も古昔忠臣孝子義人烈婦の事を悦ぶ。朝起きてより夜寝ぬるまで、兀々孜々として、且つ読み且つ抄し、或は感じて泣き、或は喜びて躍り、自ら已むこと能はず。此の楽しみ中々他に比較すべき者あるを覚えず。況や更に良友を得て奨励切磋し、肝胆を吐露し、互ひに天下の大計を論じ、身を以て大難至険に当たらんとするに当たりて、満心の愉快比すべき者なし。此の楽しみ到る所居る所吾と相随はざるはなし。過ぐる者は追思して之を楽しみ、来たる者は予算して楽しむべし。今美肉嘉肴ありと云へども、一飽の余り復た顧みるに意なし。麦飯菜羹と云へども一日三食すれば復た求むる者なし。且つ理義の楽しみ胸中に充溢するに方りては、孔子の所謂肉味を知らざる如き者あり。蓋し飢ゑて食を忘れ、渇して飲を忘れ、寒くして衣を忘れ、寝ねて寐を忘るる者、是より甚しきはなし。是れ余が自心体察し得る所なり。故に余断じて云く、理義の我が心を悦ばすは芻豢の比すべきに非ざるなり。
現代語訳
「(心が同じく認めるものとは)何か。理であり義である」。この一句こそ章全体の落ち着くところで、注意すべきである。「理義が私の心を喜ばせるのは、ちょうど牛や豚の肉が私の口を喜ばせるようなものだ」。程子は「この言葉は切実で味わいがある。理義が心を喜ばせることが、本当に肉が口を喜ばせるのと同じであると、実際に身をもって確かめて、はじめて分かるのだ」と言った。私が思うに、本文も程子の説も、ともに切実だと言うべきである。試しに私が身をもって確かめたところを話そう。私は理義について、もとより自分で何かを得たなどとは言わない。しかし好んで書を読み、とりわけ昔の忠臣・孝子・義人・烈婦の事跡を喜ぶ。朝起きてから夜寝るまで、こつこつと励み、読んでは書き抜き、感じては泣き、喜んでは躍り、自分でもやめることができない。この楽しみは、なかなか他に比べられるものがあるとは思えない。まして、さらに良い友を得て励まし合い切磋し、胸の内を打ち明け、互いに天下の大計を論じ、この身で大きな困難と険しい場面に当たろうとするとき、心に満ちる愉快さは比べるものがない。この楽しみは、どこへ行ってもどこにいても私とともにある。過ぎたことは思い返して楽しみ、これから来ることは前もって思い描いて楽しめばよい。今、うまい肉やごちそうがあっても、一度満腹すればもう振り返る気にならない。麦飯と野菜の汁でも、一日三度食べればそれ以上は求めない。しかも理義の楽しみが胸いっぱいに満ちているときには、孔子が言ったように肉の味も分からないほどになる。思うに、飢えて食を忘れ、渇いて飲むのを忘れ、寒くて着るのを忘れ、寝床にいて眠るのを忘れる者で、これより甚だしいものはない。これが、私が自分の心で確かめたところである。だから私は断言する。理義が私の心を喜ばせるのは、肉などと比べられるものではない。
解説
この章句が説くこと
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