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講孟余話 / 告子上 第七章

富歲子弟多賴、凶歲子弟多暴、非天之降才爾殊也、其所以陷溺其心者然也此章人性皆善、聖人モ我ト類ヲ同スル者ナルヲ論ス、但シ此一節又以テ政ヲナスノ要ヲモ悟ルヘシ、孟子曾テ云ク民之爲道也、有恒產者有恒心、無恒產者無恒心、苟恒心、放僻邪侈無不爲已、及陷乎罪、然後從而刑之、是罔民也、焉有仁人在位、罔民而可爲也、滕文公上第三章、又梁惠王上末章ニモ此意有、文小異又云ク、聖人治天下、使有菽粟如水火、而民焉有不仁者乎盡心上篇ト、是等ノ語ト其義皆相通スルナリ、孔子ノ庶冨教、孟子ノ五畝ノ宅、百畝ノ田、庠序学校、又是ト交ヘ考フヘシ、此論具ニ梁惠王篇等ニ見ユ、

新字:富歳子弟多頼、凶歳子弟多暴、非天之降才爾殊也、其所以陥溺其心者然也此章人性皆善、聖人モ我ト類ヲ同スル者ナルヲ論ス、但シ此一節又以テ政ヲナスノ要ヲモ悟ルヘシ、孟子曽テ云ク民之為道也、有恒産者有恒心、無恒産者無恒心、苟恒心、放僻邪侈無不為已、及陥乎罪、然後従而刑之、是罔民也、焉有仁人在位、罔民而可為也、滕文公上第三章、又梁恵王上末章ニモ此意有、文小異又云ク、聖人治天下、使有菽粟如水火、而民焉有不仁者乎尽心上篇ト、是等ノ語ト其義皆相通スルナリ、孔子ノ庶冨教、孟子ノ五畝ノ宅、百畝ノ田、庠序学校、又是ト交ヘ考フヘシ、此論具ニ梁恵王篇等ニ見ユ、

書き下し

「富歳には子弟多く頼り、凶歳には子弟多く暴す。天の才を降すこと爾く殊なるに非ざるなり、其の其の心を陥溺する所以の者然るなり」。此の章、人性皆善にして、聖人も我と類を同じくする者なるを論ず。但し此の一節又以て政をなすの要をも悟るべし。孟子曾て云く、「民の道たるや、恒産有る者は恒心有り、恒産無き者は恒心無し。苟も恒心無ければ、放辟邪侈、為さざる無きのみ。罪に陥るに及びて、然る後従ひて之を刑す、是れ民を罔するなり。焉んぞ仁人位に在りて、民を罔することを為すべけんや」(滕文公上第三章、又梁恵王上末章にも此の意有り、文小異)。又云く、「聖人天下を治むるに、菽粟有らしむること水火の如くす。而して民焉んぞ不仁なる者有らんや」(尽心上篇)と。是等の語と其の義皆相通ずるなり。孔子の庶・富・教、孟子の五畝の宅、百畝の田、庠序学校、又是と交へ考ふべし。此の論具さに梁恵王篇等に見ゆ。

現代語訳

「豊作の年には若者の多くが頼りになり、凶作の年には若者の多くが乱暴になる。天が与えた資質がそのように違うのではない。その心を溺れさせるものがそうさせるのである」。この章は、人の性はみな善であり、聖人も自分と同じ類の者であることを論じている。ただしこの一節によって、政治をする要も悟るべきである。孟子はかつて言った。「民のあり方というものは、安定した生業があれば安定した心があり、安定した生業がなければ安定した心がない。安定した心がなければ、勝手気ままや悪事を何でもする。罪に陥ってから後を追って罰するのは、民を網にかけるようなものだ。仁者が位にありながら、民を網にかけるようなことをしてよいだろうか」(滕文公上篇第三章。梁恵王上篇の末章にもこの意味があり、文は少し異なる)。また「聖人が天下を治めると、豆や穀物を水や火のようにありふれたものにする。そうすれば民にどうして不仁な者がいようか」(尽心上篇)と言った。これらの言葉と、その意味はみな通じ合っている。孔子の「人を増やし、豊かにし、教える」、孟子の「五畝の宅地、百畝の田」、村の学校なども、これとあわせて考えるべきである。この論は梁恵王篇などに詳しく見える。

解説

告子上第七章は、豊作の年には若者が素直で、凶作の年には荒れるのは、天が与えた資質が違うのではなく、境遇が心を溺れさせるからだと説きます。松陰はここに性善の論だけでなく政治の要を読み取り、恒産なくして恒心なし、民が罪を犯してから罰するのは網にかけるようなものだ、という孟子の言葉を並べます。人が善を保てるかどうかは、生活の基盤と教育にかかっている。個人の心がけだけを責める前に、その人が置かれた環境を整えよ、という視点は、今の職場や社会の制度づくりにも通じます。

この章句が説くこと

恒産環境政治性善教育

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