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講孟余話 / 告子上 第三章

或疑フ性善ト云トモ、形氣ノ欲モ亦性ニ非スヤ、或ノ意ハ欲ハ即心ノ功用ニシテ心ハ即性ノ人ニ存スル者トナリ且憂国疾夷ノ心ハ、形氣ニ因ルニ非サルカ、或ノ意ハ忠孝ノ行ハ形氣ヲ以テコソスルトナリ余云ク是何ノ言ソヤ、汝自ラ精思切思セヨ、耳目口鼻手足ナクハ、何レヨリ声色味臭安逸ノ欲ヲ生スルカ、耳目口鼻手足ナキ時ハ、憂国疾夷ノ心ハ起ラサルカ、耳目口鼻手足ヲ持タスシテ思フハ即性ナリ耳目口鼻手足アリテ後起ルハ形氣ノ欲也汝カ如キ者、眞ニ所謂粗鄙虚空ノ人ニテ、孟子ノ所謂禍仁義者ナルカナ

新字:或疑フ性善ト云トモ、形気ノ欲モ亦性ニ非スヤ、或ノ意ハ欲ハ即心ノ功用ニシテ心ハ即性ノ人ニ存スル者トナリ且憂国疾夷ノ心ハ、形気ニ因ルニ非サルカ、或ノ意ハ忠孝ノ行ハ形気ヲ以テコソスルトナリ余云ク是何ノ言ソヤ、汝自ラ精思切思セヨ、耳目口鼻手足ナクハ、何レヨリ声色味臭安逸ノ欲ヲ生スルカ、耳目口鼻手足ナキ時ハ、憂国疾夷ノ心ハ起ラサルカ、耳目口鼻手足ヲ持タスシテ思フハ即性ナリ耳目口鼻手足アリテ後起ルハ形気ノ欲也汝カ如キ者、真ニ所謂粗鄙虚空ノ人ニテ、孟子ノ所謂禍仁義者ナルカナ

書き下し

或ひと疑ふ、性善と云へども、形気の欲も亦性に非ずや(或の意は、欲は即ち心の功用にして、心は即ち性の人に存する者となり)。且つ憂国疾夷の心は、形気に因るに非ざるか(或の意は、忠孝の行は形気を以てこそするとなり)。余云く、是れ何の言ぞや、汝自ら精思切思せよ。耳目口鼻手足なくば、何れより声色味臭安逸の欲を生ずるか。耳目口鼻手足なき時は、憂国疾夷の心は起こらざるか。耳目口鼻手足を持たずして思ふは即ち性なり、耳目口鼻手足ありて後起こるは形気の欲なり。汝が如き者、真に所謂粗鄙虚空の人にて、孟子の所謂仁義を禍ふ者なるかな。

現代語訳

ある人が疑って言う。性善とはいっても、体と気質の欲もまた性ではないのか(この人の意は、欲は心のはたらきであり、心は性が人に宿ったものだ、ということである)。また、国を憂え外夷を憎む心も、体と気質によって起こるのではないか(この人の意は、忠孝の行いは体によってこそするものだ、ということである)。私は言う。何ということを言うのか。自分で精密に、切実に考えてみよ。耳目口鼻手足がなければ、どこから音・色・味・匂い・安楽の欲が生じるのか。耳目口鼻手足がないときには、国を憂え外夷を憎む心は起こらないのか。耳目口鼻手足を持たずに思うもの、それが性であり、耳目口鼻手足があってから起こるもの、それが体と気質の欲である。お前のような者こそ、まさに粗雑で空虚な人で、孟子の言う「仁義を損なう者」であるなあ。

解説

告子上第三章の講説の結びで、松陰は想定問答の形をとります。欲も心のはたらきなのだから性ではないのか、国を憂える心も体があってこそではないか、という反論に、松陰は体を取り去って考えてみよと答えます。目や耳がなければ色や音の欲は生じないが、国を憂える心は体がなくても起こる。前者は形気の欲、後者が性だ、という区別です。理屈で言いくるめようとする相手を「仁義を禍ふ者」と叱る語気には、講義の場の熱がそのまま残っています。自分の欲と志を切り分けて点検する、思考の道具としても使えます。

この章句が説くこと

性善欲問答精思志

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