講孟余話 / 萬章上 第七章
十一月二十四日進退出處ノ道、伊尹ニ至テ一毫遺憾ナシト云ヘシ、其自ラ任スルニ天下ノ重ヲ以テシ、斯民ヲ覚シ斯民ヲ救フ、固ヨリ所謂聖ノ任ナル者ニシテ、其畎畝ノ中ニ処リ、堯舜ノ道ヲ樂ミ、必スヤ湯ノ三聘ヲ待テ、然ル後敢テ出ツ、其自ラ待ノ重キ、又斯ノ如シ、孔子ト云ヘトモ亦是ニ過キス、孔子魯衞陳宋ニ奔走スルハ、即チ伊尹ノ任ニシテ、陳ニ在シテ魯ノ狂猥ヲ思フハ、伊尹斯民ヲ覚スルノ志ナリ、易ヲ讀テ韋編三絕シ、夏殷ノ禮吾能ク之ヲ言フハ、伊尹畎畝ノ中ニ處リ堯舜ノ道ヲ樂シムノ心ナリ、孟子ハ孔子ヲ学フ者ナリ、而シテ又常ニ伊尹ヲ称道ス、且其自ラ居ルニ云ク、志ヲ得テハ民ト之ニ因ルトハ、斯民ヲ覚シ斯民ヲ救フノ志ナリ、志ヲ得サレハ獨リ其身ヲ善クスト云ハ、畎畝ノ中ニ處リ堯舜ノ道ヲ樂ムノ心ナリ、後世諸葛孔明親ラ南陽ニ耕シ、常ニ自ラ管仲樂毅ニ比シ、先主ノ三顧ヲ待テ後、初テ出仕フ、其仕フルニ當テハ、漢賊兩立セズ、王業偏安ナラサルヲ以テ、奸宄ヲ攘除シ、漢室ヲ興復スルヲ己カ任トス、何ソ其伊尹ニ髣髴タルヤ、
新字:十一月二十四日進退出処ノ道、伊尹ニ至テ一毫遺憾ナシト云ヘシ、其自ラ任スルニ天下ノ重ヲ以テシ、斯民ヲ覚シ斯民ヲ救フ、固ヨリ所謂聖ノ任ナル者ニシテ、其畎畝ノ中ニ処リ、堯舜ノ道ヲ楽ミ、必スヤ湯ノ三聘ヲ待テ、然ル後敢テ出ツ、其自ラ待ノ重キ、又斯ノ如シ、孔子ト云ヘトモ亦是ニ過キス、孔子魯衛陳宋ニ奔走スルハ、即チ伊尹ノ任ニシテ、陳ニ在シテ魯ノ狂猥ヲ思フハ、伊尹斯民ヲ覚スルノ志ナリ、易ヲ読テ韋編三絶シ、夏殷ノ礼吾能ク之ヲ言フハ、伊尹畎畝ノ中ニ処リ堯舜ノ道ヲ楽シムノ心ナリ、孟子ハ孔子ヲ学フ者ナリ、而シテ又常ニ伊尹ヲ称道ス、且其自ラ居ルニ云ク、志ヲ得テハ民ト之ニ因ルトハ、斯民ヲ覚シ斯民ヲ救フノ志ナリ、志ヲ得サレハ独リ其身ヲ善クスト云ハ、畎畝ノ中ニ処リ堯舜ノ道ヲ楽ムノ心ナリ、後世諸葛孔明親ラ南陽ニ耕シ、常ニ自ラ管仲楽毅ニ比シ、先主ノ三顧ヲ待テ後、初テ出仕フ、其仕フルニ当テハ、漢賊両立セズ、王業偏安ナラサルヲ以テ、奸宄ヲ攘除シ、漢室ヲ興復スルヲ己カ任トス、何ソ其伊尹ニ髣髴タルヤ、
書き下し
十一月二十四日。進退出処の道、伊尹に至りて一毫の遺憾なしと云ふべし。其の自ら任ずるに天下の重きを以てし、斯の民を覚し斯の民を救ふ、固より所謂聖の任なる者にして、其の畎畝の中に処り、堯舜の道を楽しみ、必ずや湯の三聘を待ちて、然る後敢へて出づ、其の自ら待つの重き、又斯くの如し。孔子と云へども亦是に過ぎず。孔子の魯・衛・陳・宋に奔走するは、即ち伊尹の任にして、陳に在りて魯の狂猥(狂簡)を思ふは、伊尹の斯の民を覚すの志なり。易を読みて韋編三たび絶ち、夏殷の礼吾能く之を言ふは、伊尹の畎畝の中に処り堯舜の道を楽しむの心なり。孟子は孔子を学ぶ者なり、而して又常に伊尹を称道す。且つ其の自ら居るに云く、志を得ては民と之に由ると云ふは、斯の民を覚し斯の民を救ふの志なり。志を得ざれば独り其の身を善くすと云ふは、畎畝の中に処り堯舜の道を楽しむの心なり。後世諸葛孔明、親ら南陽に耕し、常に自ら管仲・楽毅に比し、先主の三顧を待ちて後、初めて出で仕ふ。其の仕ふるに当たりては、漢賊両立せず、王業偏安ならざるを以て、奸宄を攘除し、漢室を興復するを己が任とす。何ぞ其の伊尹に髣髴たるや。
現代語訳
十一月二十四日。身の進退・出処の道は、伊尹に至って少しの欠けもないと言える。天下の重責を自分の任とし、この民を目覚めさせ救う。もとより孟子のいう「聖人のうち任を負う者」であり、しかも田畑の中にいて堯舜の道を楽しみ、殷の湯王から三度招かれるのを待ってはじめて世に出た。自らを重んじる態度もこのとおりである。孔子といえどもこれ以上ではない。孔子が魯・衛・陳・宋の国々を奔走したのは伊尹の任と同じであり、陳にいて故郷の魯の志高い若者たちを思ったのは、伊尹が民を目覚めさせようとした志と同じである。易を読んで綴じ紐が三度切れるほどであり、夏や殷の礼を語ることができたのは、伊尹が田畑の中で堯舜の道を楽しんだ心と同じである。孟子は孔子を学ぶ人であり、また常に伊尹を称えた。そして自分の身の処し方について、志を得れば民とともにその道を行うと言ったのは民を目覚めさせ救う志であり、志を得なければ独りその身を善くすると言ったのは、田畑の中で堯舜の道を楽しむ心である。後世、諸葛孔明は自ら南陽で耕しながら、常に自分を管仲・楽毅に比べ、劉備の三顧を待ってはじめて出仕した。仕えてからは、漢と賊(魏)は両立せず、王業は一地方に安んじてはならないとして、悪人を払い除け、漢室を興し直すことを自分の任とした。なんと伊尹によく似ていることか。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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孟子・盡心章句上孟子曰く、「孔子東山に登りて魯を小とし、泰山に登りて天下を小とす。故に海を観る者には水と為し難く、聖人の門に游ぶ者には言と為し難し。水を観るに術有り、必ず其の瀾を観る。日月明有り、光を容るるところ必ず照らす。流水の物為るや、科に盈たざれば行かず。君子の道に志すや、章を成さざれば達せず。」
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孟子・盡心章句上公孫丑曰く、「伊尹曰く、『予、不順に狎れしめず。』太甲を桐に放ち、民大いに悅ぶ。太甲賢となる。又之を反し、民大いに悅ぶ。賢者の人臣為るや、其の君、賢ならざれば、則ち固より放つ可きか。」孟子曰く、「伊尹の志有れば、則ち可なり。伊尹の志無ければ、則ち篡うなり。」
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史記 伯夷列伝子曰く、「道同じからざれば相ひ為に謀らず」と。亦た各々其の志に従ふなり。故に曰く、「富貴もし求む可くんば、執鞭の士と雖も、吾も亦た之を為さん。如し求む可からずんば、吾が好む所に従はん」と。「歳寒くして、然る後に松柏の凋むに後るるを知る」。世を挙げて混濁して、清士乃ち見はる。豈に其の重んずること彼の若く、其の軽んずること此くの若くなるを以てせんや。
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論語・里仁篇子曰わく、いやしくも仁に志せば、悪しきこと無し。
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史記 刺客列伝高漸離名姓を変じて人の庸保と為り、宋子に匿れ作す。之を久しくして、作苦しく、其の家の堂上に客の筑を撃つを聞き、傍偟して去る能はず。毎に言を出だして曰く、「彼に善有り善ならざる有り」と。従者以て其の主に告げて曰く、「彼の庸は乃ち音を知り、竊かに是非を言ふ」と。家の丈人召して前に筑を撃たしむ。一坐善しと称し、酒を賜ふ。而して高漸離、久しく隠れて畏約すること窮まる時無きを念ひ、乃ち退きて、其の装匣の中の筑と其の善衣とを出だし、容貌を更めて前む。坐を挙げて客皆驚き、下りて与に抗礼し、以て上客と為す。筑を撃ちて歌はしむ。客流涕して去らざる者無し。宋子伝へて之を客とし、秦の始皇に聞こゆ。秦の始皇召し見る。人識る者有りて、乃ち曰く、「高漸離なり」と。秦の皇帝其の善く筑を撃つを惜しみ、重ねて之を赦し、乃ち其の目を矐す。筑を撃たしむるに、未だ嘗て善しと称せずんばあらず。稍く益々之に近づく。高漸離乃ち鉛を以て筑の中に置き、復た進みて近づくを得、筑を挙げて秦の皇帝を樸つ。中らず。是に於て遂に高漸離を誅し、身を終ふるまで復た諸侯の人に近づかず。魯句践已に荊軻の秦王を刺せしを聞き、私かに曰く、「嗟乎、惜しいかな其の刺剣の術を講ぜざりしや。甚だしいかな吾の人を知らざるや。曩者吾之を叱す。彼乃ち我を以て人に非ずと為せしならん」と。太史公曰く、世に荊軻を言ふに、其の太子丹の命を称して、「天粟を雨らし、馬角を生ず」とするや、太だ過ぎたり。又荊軻秦王を傷つくと言ふも、皆非なり。始め公孫季功・董生、夏無且と游び、具に其の事を知り、余の為に之を道ふこと是の如し。曹沫より荊軻に至るまで五人、此れ其の義或いは成り或いは成らず。然れども其の意を立つること較然として、其の志を欺かず、名後世に垂る。豈に妄ならんや。
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孟子・盡心章句下孟子曰く、「名を好むの人は、能く千乘の國を讓る。苟くも其の人に非ざれば、簞食豆羹も色に見わる。」
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