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講孟余話 / 萬章上 第六章

然ルニ漢儒以來洪範春秋ノ說ヲ附會シ、五行天文種々ノ說ヲ設ケ、世ヲ眩惑シ、又唐ノ六典ニハ、大瑞上瑞中瑞下瑞ノ目ヲ載スルニ至ル、是所謂天ヲ誣ルノ甚シキ者ニシテ、余甚タ此類ヲ惡ミ、務メテ是ヲ排斥ス、而シテ此說已ニ人心ニ漸漬シ、遽ニ破リ難シ、唐ノ柳宗元ガ天說、時令論、貞符等ノ諸篇、其論極メテ明透ナリ、余常ニ好テ称道ス、今又孟子ノ此章ヲ得テ根據トス、使之主祭、而百神享之、祭テ神ノ享ルトハ、我カ誠心ノ徹スルヲ云、舜大麓ニ入レハ烈風雷雨ニモ迷ハスト、即チ此事ナリ、又易ニ震百里ヲ驚カス匕鬯ヲ失ハスト云モ同シコトナリ、天地鬼神素ヨリ物ナシ、然トモ名山大川宗廟社稷、皆人心ノ自然ニ崇敬スル所、故ニ祭祀スル者斉戒沐浴、必ス誠ニ必ス敬ナレハ、自ラ著明スル物アル、是レ則チ百神ノ享ル所ナリ、故ニ神ノ享ルハ心ノ誠アルナリ、心已ニ誠ナレハ、以テ事ヲ治メテ百姓ヲ安ンスヘシ、此理ヲ知ラスシテ、神ノ享ルニ至テ異端怪誕ノ說ヲ附會スルコトナカレ、

新字:然ルニ漢儒以来洪範春秋ノ説ヲ附会シ、五行天文種々ノ説ヲ設ケ、世ヲ眩惑シ、又唐ノ六典ニハ、大瑞上瑞中瑞下瑞ノ目ヲ載スルニ至ル、是所謂天ヲ誣ルノ甚シキ者ニシテ、余甚タ此類ヲ悪ミ、務メテ是ヲ排斥ス、而シテ此説已ニ人心ニ漸漬シ、遽ニ破リ難シ、唐ノ柳宗元ガ天説、時令論、貞符等ノ諸篇、其論極メテ明透ナリ、余常ニ好テ称道ス、今又孟子ノ此章ヲ得テ根拠トス、使之主祭、而百神享之、祭テ神ノ享ルトハ、我カ誠心ノ徹スルヲ云、舜大麓ニ入レハ烈風雷雨ニモ迷ハスト、即チ此事ナリ、又易ニ震百里ヲ驚カス匕鬯ヲ失ハスト云モ同シコトナリ、天地鬼神素ヨリ物ナシ、然トモ名山大川宗廟社稷、皆人心ノ自然ニ崇敬スル所、故ニ祭祀スル者斉戒沐浴、必ス誠ニ必ス敬ナレハ、自ラ著明スル物アル、是レ則チ百神ノ享ル所ナリ、故ニ神ノ享ルハ心ノ誠アルナリ、心已ニ誠ナレハ、以テ事ヲ治メテ百姓ヲ安ンスヘシ、此理ヲ知ラスシテ、神ノ享ルニ至テ異端怪誕ノ説ヲ附会スルコトナカレ、

書き下し

然るに漢儒以来、洪範春秋の説を附会し、五行天文種々の説を設けて世を眩惑し、又唐の六典には大瑞・上瑞・中瑞・下瑞の目を載するに至る。是れ所謂天を誣ふるの甚だしき者にして、余甚だ此の類を悪み、務めて是れを排斥す。而して此の説已に人心に漸漬し、遽かに破り難し。唐の柳宗元が天説、時令論、貞符等の諸篇、其の論極めて明透なり、余常に好んで称道す。今又孟子の此の章を得て根拠とす。「之れをして祭を主らしめて、百神之れを享く」。祭りて神の享くとは、我が誠心の徹するを云ふ。舜大麓に入れば烈風雷雨にも迷はずと、即ち此の事なり。又易に「震百里を驚かすも、匕鬯を喪はず」と云ふも同じことなり。天地鬼神素より物なし。然れども名山大川、宗廟社稷、皆人心の自然に崇敬する所、故に祭祀する者斉戒沐浴し、必ず誠に必ず敬なれば、自ら著明する物あり、是れ則ち百神の享くる所なり。故に神の享くるは心の誠あるなり。心已に誠なれば、以て事を治めて百姓を安んずべし。此の理を知らずして、神の享くるに至りて異端怪誕の説を附会することなかれ。

現代語訳

それなのに漢の儒者以来、『書経』洪範篇や『春秋』の説にこじつけ、五行や天文のさまざまな説を設けて世を惑わし、さらに唐の『六典』には大瑞・上瑞・中瑞・下瑞という(吉兆の)項目まで載せるに至った。これはいわゆる天を偽ることのはなはだしいもので、私はこの類をひどく憎み、努めて退けている。けれどもこの説はすでに人の心に染み込み、急には破りがたい。唐の柳宗元の「天説」「時令論」「貞符」などの諸篇は、その論が極めて明快で透徹しており、私はいつも好んで称えている。今また孟子のこの章を得て、その根拠とする。「舜に祭りをつかさどらせると、百の神々がそれを受け入れた」。祭って神が受け入れるとは、自分の誠の心が貫き通ることをいう。舜が大きな山の麓に入って、激しい風や雷雨にも迷わなかったというのは、まさにこのことである。また『易経』に「雷が百里を驚かしても、(祭りの)匙と香酒を落とさない」というのも同じことである。天地の鬼神はもともと物としてあるのではない。けれども名山大川、宗廟や国家の祭壇は、みな人の心が自然に崇め敬うところである。だから祭る者が身を清めて、必ず誠に必ず敬えば、おのずと明らかに現れるものがある。これがすなわち百の神々が受け入れるということである。だから神が受け入れるとは、心に誠があることである。心がすでに誠であれば、それで事を治めて民を安んじることができる。この道理を知らずに、神が受け入れることについて異端や怪しげな説をこじつけてはならない。

解説

松陰は、漢代以降の儒者が天災や吉兆を政治と結びつけた天人相関説や、瑞祥の等級づけを「天を誣ふる」ものとして厳しく退けます。柳宗元の「天説」などを支持し、孟子のこの章をその根拠に据えます。舜が祭りを主ると百神が享けたというのも、神秘ではなく、祭る者の誠が貫かれることだと読むのです。鬼神は物としてあるのではなく、人が自然に崇敬する心に現れる。迷信を退けながら祭祀の誠を大切にする、松陰の合理的で真摯な宗教観がよく表れた一節です。

この章句が説くこと

誠迷信祭祀合理天

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