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講孟余話 / 萬章上 第五章

十一月二十二日二章通シテ一章トナシミルヘル、此章ニ於テ天命ノ說ヲ明ニスヘシ、盖シ古ヘ天ト称スル二義アリ、天視自我民視、天聽自我民聽ト、是一義ナリ、盖シ天モト心ナシ、民心ヲ以テ心トス、視聽アルニ非ス、民ノ視聽ヲ以テ視聽トス、凡ソ人ハ天地ノ氣ヲ得テ形トシ、天地ノ理ヲ得テ心トス、是人心ヲ以テ天心トスルノ義ナリ、故ニ天下ノ朝覲訟獄謳歌スル者皆歸スルヲ天也ト云ヘリ、莫之爲而爲者天也、莫之致而至者命也ト、是一義ナリ、盖シ人力ノ及ハサル所ヲ指シテ云フ、乃チ舜禹益相去久遠、其子之賢不肖皆天也ト云モノニシテ、人ノ夭壽智愚ヨリ、萬端ノ損得幸不幸等、都テ人力ニ任セヌコト皆是ナリ、古人天ヲ說ク、此二義ノ外更ニアルコトヲキカス、

新字:十一月二十二日二章通シテ一章トナシミルヘル、此章ニ於テ天命ノ説ヲ明ニスヘシ、盖シ古ヘ天ト称スル二義アリ、天視自我民視、天聴自我民聴ト、是一義ナリ、盖シ天モト心ナシ、民心ヲ以テ心トス、視聴アルニ非ス、民ノ視聴ヲ以テ視聴トス、凡ソ人ハ天地ノ気ヲ得テ形トシ、天地ノ理ヲ得テ心トス、是人心ヲ以テ天心トスルノ義ナリ、故ニ天下ノ朝覲訟獄謳歌スル者皆帰スルヲ天也ト云ヘリ、莫之為而為者天也、莫之致而至者命也ト、是一義ナリ、盖シ人力ノ及ハサル所ヲ指シテ云フ、乃チ舜禹益相去久遠、其子之賢不肖皆天也ト云モノニシテ、人ノ夭寿智愚ヨリ、万端ノ損得幸不幸等、都テ人力ニ任セヌコト皆是ナリ、古人天ヲ説ク、此二義ノ外更ニアルコトヲキカス、

書き下し

十一月二十二日。二章通して一章となし見るべし。此の章に於て天命の説を明らかにすべし。蓋し古へ天と称する二義あり。「天の視るは我が民の視るに自ひ、天の聴くは我が民の聴くに自ふ」と、是れ一義なり。蓋し天もと心なし、民心を以て心とす。視聴あるに非ず、民の視聴を以て視聴とす。凡そ人は天地の気を得て形とし、天地の理を得て心とす、是れ人心を以て天心とするの義なり。故に天下の朝覲訟獄謳歌する者皆帰するを「天なり」と云へり。「之れを為すこと莫くして為る者は天なり、之れを致すこと莫くして至る者は命なり」と、是れ一義なり。蓋し人力の及ばざる所を指して云ふ。乃ち「舜禹益相去ること久遠、其の子の賢不肖皆天なり」と云ふものにして、人の夭寿智愚より、万端の損得幸不幸等、都て人力に任せぬこと皆是れなり。古人天を説く、此の二義の外更にあることを聞かず。

現代語訳

十一月二十二日。(第五章と第六章の)二章は通して一章として見るべきである。この章で天命の説を明らかにすべきである。思うに、昔「天」と称するのに二つの意味があった。「天が見るのは我が民が見るのに従い、天が聞くのは我が民が聞くのに従う」、これが一つの意味である。思うに天はもともと心を持たず、民の心を心とする。見たり聞いたりするのではなく、民の見聞きを見聞きとする。およそ人は天地の気を得て形とし、天地の理を得て心とする。これが人の心を天の心とする意味である。だから天下の諸侯の朝見、訴訟、歌に歌われることがみな(舜に)帰したのを「天である」と言ったのである。「誰もそうしないのにそうなるのは天であり、誰も招かないのにやって来るのは命である」、これがもう一つの意味である。思うに人の力の及ばないところを指して言う。すなわち「舜・禹・益の在位の長さが違い、その子が賢いか愚かかもみな天である」というもので、人の早死にや長寿、賢さや愚かさから、あらゆる損得や幸不幸まで、すべて人の力の思うようにならないことがみなこれである。古人が天を説くのに、この二つの意味のほかにあるとは聞かない。

解説

萬章上の第五章・第六章は、堯が舜に天下を与えたのではなく天が与えた、禹の後に子の啓が継いだのも天だ、と説きます。松陰は二章を一つと見て、古人のいう天には二つの意味しかないと整理します。一つは、天は民の心を自分の心とする、つまり民意こそ天意だという意味。もう一つは、寿命や子の賢愚のように人の力の及ばない巡り合わせとしての天です。天を神秘的なものではなく、民心と人力の限界として捉える、合理的な天命観がここにあります。

この章句が説くこと

天命民心運命合理孟子

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