講孟余話 / 離婁下 第三十三章
此章冨貴利達ヲ求ムルノ人ヲ耻カシム痛快ト云ヘシ、此種ノ人物頑鈍無耻、古今同流國ノ萎靡振ハサル、實ニ是ニ願クハ大有力ノ人アリテ、厚ツク、此章ヲ三復シテ其人ヲ罵詈シ、以テ廉耻ノ風ヲ一振シタキコトナリ、離婁ノ篇玆ニ終ル、孟子先生意アルコトニヤ、離婁下篇凡三十三章甚タ條理アルヲ見ス、但シ首章先聖後聖其揆一也ニ始ル、第二十九章禹稷顏回同道トアリ、第三十一章曾子子思同道トアリ、三章同意ニシテ皆時中ノ義ヲ明ス、又舜第十九章禹湯文武周公第二十章孔子第二十一章及ヒ自ラ言フノ章第二十二章ノ如キ、亦群聖時ニ中スルノ意ヲ見ス、因テ知ル通篇時ニ中ノ義、且世俗ノ惑ヲ觧キ誤ヲ正ス者多シ、子產ノ惠第二章舊君ノ服第三章仲尼ノ甚第十章羿ノ罪第二十四章公行子ノ喪第二十七章匡章ノ不孝第三十章ノ諸章尤モ明ナリ、其他推シテ知ルヘシ、然トモ深ク拘ルコトナカレ
新字:此章冨貴利達ヲ求ムルノ人ヲ耻カシム痛快ト云ヘシ、此種ノ人物頑鈍無耻、古今同流国ノ萎靡振ハサル、実ニ是ニ願クハ大有力ノ人アリテ、厚ツク、此章ヲ三復シテ其人ヲ罵詈シ、以テ廉耻ノ風ヲ一振シタキコトナリ、離婁ノ篇玆ニ終ル、孟子先生意アルコトニヤ、離婁下篇凡三十三章甚タ条理アルヲ見ス、但シ首章先聖後聖其揆一也ニ始ル、第二十九章禹稷顔回同道トアリ、第三十一章曽子子思同道トアリ、三章同意ニシテ皆時中ノ義ヲ明ス、又舜第十九章禹湯文武周公第二十章孔子第二十一章及ヒ自ラ言フノ章第二十二章ノ如キ、亦群聖時ニ中スルノ意ヲ見ス、因テ知ル通篇時ニ中ノ義、且世俗ノ惑ヲ觧キ誤ヲ正ス者多シ、子産ノ恵第二章旧君ノ服第三章仲尼ノ甚第十章羿ノ罪第二十四章公行子ノ喪第二十七章匡章ノ不孝第三十章ノ諸章尤モ明ナリ、其他推シテ知ルヘシ、然トモ深ク拘ルコトナカレ
書き下し
此の章富貴利達を求むるの人を恥かしむ、痛快と云ふべし。此の種の人物頑鈍無恥、古今同流、国の萎靡振はざる、実に是れに由る。願はくは大有力の人ありて、此の章を三復して其の人を罵詈し、以て廉恥の風を一振したきことなり。離婁の篇茲に終る。孟子先生意あることにや、離婁下篇凡そ三十三章、甚だ条理あるを見ず。但し首章「先聖後聖其の揆一なり」に始まり、第二十九章「禹稷顔回道を同じうす」とあり、第三十一章「曾子子思道を同じうす」とあり、三章同意にして皆時中の義を明かす。又舜第十九章、禹湯文武周公第二十章、孔子第二十一章、及び自ら言ふの章第二十二章の如き、亦群聖時に中するの意を見す。因りて知る、通篇時に中するの義、且つ世俗の惑ひを解き誤りを正す者多し。子産の恵第二章、旧君の服第三章、仲尼の甚第十章、羿の罪第二十四章、公行子の喪第二十七章、匡章の不孝第三十章の諸章、尤も明らかなり。其の他推して知るべし。然れども深く拘ることなかれ。
現代語訳
この章は富貴や出世を求める人を恥じ入らせるもので、痛快というべきである。この種の人物は鈍くて恥知らずであり、古今同じ流れで、国が萎えて振るわないのは実にこれによる。願わくは大きな力のある人がいて、この章を繰り返し読んでそういう人を罵り、廉恥の気風を奮い起こしてほしいものである。離婁の篇はここで終わる。孟子先生に意図があったのかどうか、離婁下篇の三十三章にはあまり筋道立った配列は見えない。ただ、首章の「昔の聖人も後の聖人もその法は一つ」に始まり、第二十九章に「禹・后稷・顔回は道を同じくする」とあり、第三十一章に「曾子・子思は道を同じくする」とある。三章は同じ意味で、どれも時にかなうという義を明らかにしている。また舜(第十九章)、禹・湯・文王・武王・周公(第二十章)、孔子(第二十一章)、そして孟子自らを語る章(第二十二章)なども、聖人たちが時にかなったという意味を示している。そこで、この篇全体に時にかなうという義が通っていること、また世俗の迷いを解き誤りを正すものが多いことが分かる。子産の恵み(第二章)、旧君への喪服(第三章)、孔子の度を越さないこと(第十章)、羿の罪(第二十四章)、公行子の喪(第二十七章)、匡章の不孝(第三十章)の諸章が最も明らかである。その他は推して知るべきである。けれども深くこだわってはならない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『講孟余話』離婁上 第七章此の章、公孫丑上篇第七章と同一の手段、同一の議論にして、均しく恥の一字を以て人を激励す。恥の一字は孟子喫緊の語なり。故に云ふ「人は以て恥無かるべからず」、又云ふ「恥の人に於ける大なり」(並びに盡心上篇に見ゆ)。然れども恥を知らぬ人に至りては、孟子の説も亦窮すべし。斉の景公の涕出でて呉に女すを見て、一時の権道、保国の良図と思ふの族は、人間に羞恥と云ふことあるを夢にも知らず。斯の人をして路に当たらしめば、国体を失ひ国事を誤ること、豈に限りあらんや。然れども恥は人心必有の物なれば、木石に非ざるよりは恥なきことを得ず。其の恥なきと云ふ者は、真に恥なきに非ず。恥づと雖も是れを処することなき故に、強ひて恥ぢざるの容をなすのみ。其の中心益々自ら恥づるなり。是れに因りて孟子又是れを処するの法を掲示し、遂に五年・七年等の効験を挙げて是れを歓動す。是に於て誰か敢へて羞恥を棄てて効験に趨かざらんや。況んや文王を師とするは甚だ容易なることにて、即ち上章反求在身の説に過ぎず。其の政に発する者は民を養ひ且つ教ふるに過ぎず。其の兵に発する者は民を弔ひ罪を伐つに過ぎず。已に羞恥の甚しきを知り、又効験の易きを知る。誰か敢へて其の図を改めざらんや。如何ぞ今人頑然として移らざる。時に復た孟子あることなし。吾将た誰をか尤めん。悲しいかな。
-
『講孟余話』萬章下 末章此の篇首章、伯夷・伊尹・柳下恵・孔子を論ずるは、上篇の舜・禹・啓・益・伊尹・周公・孔子・百里奚を論ずるを承くるなり。第三章友を論ず、第四章交際を論ず、第五章仕を論ず、第六章賢を尊ぶを論ず、第七章諸侯に見えざるを論ず、意皆相承く。第八章一転して、遂に尚友を論ず。末章又一転して、卿を論じ結局とす。条理窺ふべし。但し第二章周制を論ずる者、何の意たるを詳らかにせず。然れども窃かに考ふるに、是れ制度の大略、王政の大要、上章群聖賢の事を論じ終はり、下章孟子自ら処る所を論ずるの中間に、此の章を置くこと、孟子経綸の志茲に存すること知るべし。且つ暗に末章卿を論ずる章と呼応す。
-
『講孟余話』離婁上 末章舜の瞽瞍に事ふるを引きて、自ら反し己を竭すの極則を示す、其の意深し。篇中大氏章々相承け相連なる、事煩はしければ具に論ずるに及ばず。読む者意を注して是れを観るべし。
-
『講孟余話』離婁下 第三十章「世俗の所謂不孝なる者五つ」。此の五条簡明的実、特に民庶に於て最も切なり。能く此の五条を真心に教諭せば、民俗を淳にするに於て良益あるべし。世教に志ある者、浅近を以て是れを忽せにすること勿れ。孟子の章子を愛敬するは、章子を罪なしと云ふに非ず、其の自ら罪を知り自ら咎悔するの誠なるを以てなり。是れ朱註に所謂「至公至仁」なり。公なる故に罪なしと云はず、仁なる故に自ら咎悔するを愛す。知るべし、古の君子の人を待つ、寛恕にして仁なる故なり、私する所なきこと、公なる故なり。今の君子は然らず。前日一過罪あれば、悔ゆと雖も悛むと雖も曾て是れを恕せず。行ひ譏るべきなき者は、其の心の必ずしも然らざる所を探りて是れを罪す。其の行ひ偶然中正を失する者あれば、更に其の心を併せて是れを罪す。殆んど古の君子に異なり。
-
『講孟余話』滕文公下 第十章孟子の陳仲子を議るは、兄を避け母を離れ人倫の至重を廃し、匹夫の小廉を行ふを悪むにあり。圏外范氏の説甚だ明らかなり。但し仲子を以て巨擘とする者は、此の時斉国の士皆利禄に趨り、富貴を貪り、離婁下篇に云ふ所の、一妻一妾にして室に居り、東郭墦間の祭る者に乞ひて饜足をなす如き卑劣至極の人物のみ多きを以て、巨擘と云ひて是れを称するなるべし。世澆季にして士清操なきの時に方りては、仲子が如きもの末俗を砥礪するに裨益なしと云ふべからず。嗚呼、亦巨擘なるかな。下篇は、孟子時に遇はずして、自ら道を屈せざることを明らかにす。首章・第二章・第三章・第七章、皆孟子時の諸侯に屈せざるの義を詳らかにす。第四章は孟子諸侯の食を辞せざることを云ふ。第五章・第六章・第八章、皆政を論ず。孟子諸侯を見ることあらば、其の陳説する所斯くの如きのみ。此の三章を挙げて其の端緒を発するのみ。第九章は大議論、孟子自ら平生弁を好むに非ざることを弁じ、是れ孟子遂に時に遇はず、政事に施すこと能はずして、退きて空言を以て人心を正すの志を見る。第十章は仲子が蚓にして廉に非ざるを論じ、暗に第四章食を辞せざるの意と照応す。読者宜しく諸侯に屈せざるの諸章と比較し、孟子の屈せざる、仲子の廉と同年の論に非ざることを了解すべし。
-
『講孟余話』離婁下 第二十七章礼は一定の規矩、中正の標準なり。俗の如きは或は恭に過ぎて諂に入り、傲に過ぎて慢に失する者あり、而して皆礼に非ず。若し真に礼を行はんとならば、孔孟の為す所を見て知るべし。孔子の下に拝するは、慢に失するを抑へて礼に帰するなり。孟子の言はざるは、孟子独り驩と言はず、諂に入るを矯めて礼に帰するなり。而して其の道に於けるは則ち同じ。当今礼と俗と皆孔孟の時と同じからず。然れども細かに是れを考ふるに、豈に諂慢礼を失する者なからんや。宜しく深く思ひを致すべし。是れ亦第十章「仲尼は已甚しきことを為さざる者なり」の意と、互ひに相発明すべし。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る