講孟余話 / 離婁上 末章
舜ノ瞽瞍ニ事ルヲ引テ自ラ反シ己ヲ竭スノ極則ヲ示ス、其意深シ、篇中大氏章々相承ケ相連ル事煩ケレハ具論スルニ及ハス、讀者意ヲ注シテ是ヲ観ルシ
新字:舜ノ瞽瞍ニ事ルヲ引テ自ラ反シ己ヲ竭スノ極則ヲ示ス、其意深シ、篇中大氏章々相承ケ相連ル事煩ケレハ具論スルニ及ハス、読者意ヲ注シテ是ヲ観ルシ
書き下し
舜の瞽瞍に事ふるを引きて、自ら反し己を竭すの極則を示す、其の意深し。篇中大氏章々相承け相連なる、事煩はしければ具に論ずるに及ばず。読む者意を注して是れを観るべし。
現代語訳
(離婁上篇の末章は)舜が父瞽瞍に仕えたことを引いて、自分を省み己を尽くすことの究極の手本を示している。その意味は深い。この篇の中では、おおよそ章と章が受け継ぎ連なっているが、煩わしいので詳しくは論じない。読む者は注意してこれを見るべきである。
解説
離婁上篇の結びの講説です。松陰は、篇の最後に舜の孝が置かれていることに、自分を省みて己を尽くす道の究極の形を見ます。そして篇全体の章が互いに受け継ぎ連なっていることを指摘し、詳しくは読者自身が意を注いで読み取るよう促します。一章ずつ切り離して読むのでなく、篇の構成から編者の意図をくむという読み方です。すべてを説明し尽くさず、受け手に考える余地を残す、講義者としての松陰の姿勢も見えます。
この章句が説くこと
自反読書法構成舜極則
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