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講孟余話 / 離婁下 第二十九章

十一月十八日禹稷顏回同道、禹稷顏回其行同カラスト云トモ、其道ハ則同シキ所深ク思フヘシ、顏回ハ己ヲ脩ムルナリ、禹稷ハ民ヲ救フナリ、而シテ皆仁ノ道ナリ、仁者ハ己立ント欲シテ人ヲ立ツ、己達セント欲シテ人ヲ達ス、己ヲ脩ムルノ心アリ、故ニ民ヲ救フノ心アリ、是其道同シキ所ナリ、大賢以上皆然リ、中人以下或ハ其一偏ヲ得ルモ、亦是一種ノ人物ニシテ、凡庸人ノ比ニ非ス、伊尹ノ任、伯夷ノ清ノ如キ、其地然ラシムルト云トモ、抑亦性質好尙自ラ同シカラサル者アリ、况ヤ中人以下ニ於テヲヤ、然ルニ同道ノ本文ニ泥ミ、進退出處ノ際ニ當テ一概ニ拘泥スル時ハ、却テ安排ノ失アリ、大氏私心ダニ除キ去ル時ハ、進モ亦可ナリ、退モ亦可ナリ、出ルモ亦可ナリ、處ルモ亦可ナリ、私心未タ除カサレハ、進退出處亦皆不可ナリ、予性狂瞽常ニ郷鄰ノ間ニ被髪纓冠スルノ過アリ、然トモ利名ヲ謀ルニ非ス、陋巷ノ簞瓢尤モ其安スル所ナリ、因テ知ル禹稷ノ行アル者ハ、顏回ノ心ナカルヘカラサルコトヲ、若シ勞ヲ憚リ身ヲ顧ミ、禹稷ノ行ヲナサス、顏回ノ跡ニ託スル者ハ、又豈眞ノ顏回ナランヤ、

新字:十一月十八日禹稷顔回同道、禹稷顔回其行同カラスト云トモ、其道ハ則同シキ所深ク思フヘシ、顔回ハ己ヲ脩ムルナリ、禹稷ハ民ヲ救フナリ、而シテ皆仁ノ道ナリ、仁者ハ己立ント欲シテ人ヲ立ツ、己達セント欲シテ人ヲ達ス、己ヲ脩ムルノ心アリ、故ニ民ヲ救フノ心アリ、是其道同シキ所ナリ、大賢以上皆然リ、中人以下或ハ其一偏ヲ得ルモ、亦是一種ノ人物ニシテ、凡庸人ノ比ニ非ス、伊尹ノ任、伯夷ノ清ノ如キ、其地然ラシムルト云トモ、抑亦性質好尚自ラ同シカラサル者アリ、況ヤ中人以下ニ於テヲヤ、然ルニ同道ノ本文ニ泥ミ、進退出処ノ際ニ当テ一概ニ拘泥スル時ハ、却テ安排ノ失アリ、大氏私心ダニ除キ去ル時ハ、進モ亦可ナリ、退モ亦可ナリ、出ルモ亦可ナリ、処ルモ亦可ナリ、私心未タ除カサレハ、進退出処亦皆不可ナリ、予性狂瞽常ニ郷鄰ノ間ニ被髪纓冠スルノ過アリ、然トモ利名ヲ謀ルニ非ス、陋巷ノ箪瓢尤モ其安スル所ナリ、因テ知ル禹稷ノ行アル者ハ、顔回ノ心ナカルヘカラサルコトヲ、若シ労ヲ憚リ身ヲ顧ミ、禹稷ノ行ヲナサス、顔回ノ跡ニ託スル者ハ、又豈真ノ顔回ナランヤ、

書き下し

十一月十八日。「禹・稷・顔回道を同じうす」。禹稷顔回其の行ひ同じからずと雖も、其の道は則ち同じき所深く思ふべし。顔回は己を脩むるなり、禹稷は民を救ふなり、而して皆仁の道なり。仁者は己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す。己を脩むるの心あり、故に民を救ふの心あり、是れ其の道同じき所なり。大賢以上皆然り。中人以下或は其の一偏を得るも、亦是れ一種の人物にして、凡庸人の比に非ず。伊尹の任、伯夷の清の如き、其の地然らしむと雖も、抑々亦性質好尚自ら同じからざる者あり。況んや中人以下に於てをや。然るに同道の本文に泥み、進退出処の際に当りて一概に拘泥する時は、却つて安排の失あり。大氏私心だに除き去る時は、進むも亦可なり、退くも亦可なり、出づるも亦可なり、処るも亦可なり。私心未だ除かざれば、進退出処亦皆不可なり。予性狂瞽、常に郷隣の間に被髪纓冠するの過ちあり。然れども利名を謀るに非ず、陋巷の箪瓢尤も其の安んずる所なり。因りて知る、禹稷の行ひある者は顔回の心なかるべからざることを。若し労を憚り身を顧み、禹稷の行ひをなさず、顔回の跡に託する者は、又豈に真の顔回ならんや。

現代語訳

十一月十八日。「禹・后稷・顔回は道を同じくする」。禹・后稷と顔回はその行いは同じでないが、その道は同じであるところを深く考えるべきである。顔回は自分を修め、禹と后稷は民を救った。そしてどれも仁の道である。仁者は自分が立とうと思えば人を立たせ、自分が達しようと思えば人を達しさせる。自分を修める心があるから、民を救う心がある。これがその道の同じところである。大賢以上はみなそうである。中くらい以下の人は、そのどちらか一方を得るだけでも一種の人物であって、凡庸な人とは比べものにならない。伊尹の天下を己が任とする姿、伯夷の清さのようなものは、その境遇がそうさせたとはいえ、そもそも性質や好みがおのずから違うところもある。まして中くらい以下の人ならなおさらである。それなのに「道を同じくする」という本文にとらわれて、進むか退くか、出仕するか隠れるかの際に一律にこだわれば、かえって無理な取り繕いの失敗がある。おおよそ私心さえ除き去れば、進むのもよく、退くのもよく、出仕するのもよく、隠れるのもよい。私心がまだ除かれていなければ、進退出処はどれもいけない。私は生まれつき狂って愚かで、いつも隣近所の争いに髪を振り乱し冠紐だけ結んで駆けつけるような過ちがある。けれども利益や名声を求めてではない。路地裏の一杯の飯と一瓢の水こそ、最も心安らぐところである。そこで分かる。禹や后稷のような行いをする者には、顔回の心がなくてはならないことを。もし苦労を嫌い身を惜しんで、禹や后稷のような行いをせず、顔回の跡を口実にする者は、どうして本当の顔回であろうか。

解説

離婁下第二十九章は、天下を救いに奔走した禹・稷と、貧しい路地で道を楽しんだ顔回は、立場が入れ替われば同じことをしたはずで、道は同じだ、と説きます。松陰は、己を修める心と民を救う心は一つの仁から出ると読み、進むか退くかの形にこだわるより私心を除くことが大事だと説きます。自分は近所の争いにも髪を振り乱して駆けつける質だが、名利のためではないと告白し、顔回を口実に動かない者は真の顔回ではない、と結びます。行動派の松陰らしい自己弁明でもあります。

この章句が説くこと

仁出処進退私心顔回行動

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