講孟余話 / 離婁下 第二十八章
此章切實痛快、宜シク一通ヲ錄シ座右ニ貼シテ朝夕観省スヘシ、其義明白辨ヲ待タス、存心ノ二字一章ノ骨子、仁礼ハ其目ナリ、人恒愛敬之ハ是レ常ヲ云、二ノ自反スルハ是レ変ヲ云、愈反シテ愈切ナリ、忠矣ト云ニ至リテハ自ラ居ル甚タ高シ、常人或ハ前二反ヲ能スト云トモ、忠矣ニ至テハ多クハ忿恨ニ堪ルコト能ハズ、是レ其自ラ居ル妄人ト均シキノミ、說テ終身之憂一朝之患ニ至リテ、字々直ニ肺膓ヲ刺スヲ覺フ、遂ニ如舜而已矣ニ落着ス、其工夫ハ則亦仁礼ノ二字ノミ、是レ一章首尾照應ノ所ナリ、是等ノ章孟子中ニ在テモ亦多ク得ベカラス、况ヤ他書ニ於ヲヤ、豈容易ニ看過スヘケンヤ
新字:此章切実痛快、宜シク一通ヲ録シ座右ニ貼シテ朝夕観省スヘシ、其義明白弁ヲ待タス、存心ノ二字一章ノ骨子、仁礼ハ其目ナリ、人恒愛敬之ハ是レ常ヲ云、二ノ自反スルハ是レ変ヲ云、愈反シテ愈切ナリ、忠矣ト云ニ至リテハ自ラ居ル甚タ高シ、常人或ハ前二反ヲ能スト云トモ、忠矣ニ至テハ多クハ忿恨ニ堪ルコト能ハズ、是レ其自ラ居ル妄人ト均シキノミ、説テ終身之憂一朝之患ニ至リテ、字々直ニ肺膓ヲ刺スヲ覚フ、遂ニ如舜而已矣ニ落着ス、其工夫ハ則亦仁礼ノ二字ノミ、是レ一章首尾照応ノ所ナリ、是等ノ章孟子中ニ在テモ亦多ク得ベカラス、況ヤ他書ニ於ヲヤ、豈容易ニ看過スヘケンヤ
書き下し
此の章切実痛快、宜しく一通を録し座右に貼して朝夕観省すべし。其の義明白、弁を待たず。存心の二字一章の骨子、仁礼は其の目なり。「人恒に之れを愛敬す」は是れ常を云ひ、二の「自ら反す」は是れ変を云ふ。愈々反して愈々切なり。「忠なり」と云ふに至りては自ら居ること甚だ高し。常人或は前の二反を能くすと雖も、「忠なり」に至りては多くは忿恨に堪ふること能はず、是れ其の自ら居ること妄人と均しきのみ。説いて「終身の憂ひ」「一朝の患ひ」に至りて、字々直ちに肺腸を刺すを覚ゆ。遂に「舜の如くせんのみ」に落着す。其の工夫は則ち亦仁礼の二字のみ、是れ一章首尾照応の所なり。是等の章、孟子中に在りても亦多く得べからず、況んや他書に於てをや、豈に容易に看過すべけんや。
現代語訳
この章は切実で痛快である。一通を書き写して座右に貼り、朝夕見て省みるべきである。その意味は明白で、説明するまでもない。「心を存す」の二字が一章の骨子で、仁と礼がその項目である。「人は常にこれを愛し敬う」は平常のことを言い、二度の「自ら反省する」は非常の時を言う。反省すればするほど切実になる。「(私は)忠である」と言うに至っては、自分の立つ所が非常に高い。普通の人は前の二度の反省はできても、「忠である」に至っては、多くは怒りや恨みに耐えられない。これでは自分の立つ所はでたらめな者と同じである。説いて「生涯の憂い」「一時の患い」に至ると、一字一字がまっすぐ胸を刺すように感じる。そしてついに「舜のようにするだけだ」に落ち着く。その工夫もまた仁と礼の二字だけで、これが一章の首尾が照応するところである。このような章は孟子の中でも多くは得られない。まして他の書ではなおさらである。どうして軽々しく見過ごしてよいだろうか。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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孟子・離婁章句下孟子曰く、「君子の人に異なる所以の者は、其の心を存するを以てなり。君子は仁を以て心を存し、禮を以て心を存す。仁者は人を愛し、禮有る者は人を敬す。人を愛する者は、人恒に之を愛し、人を敬する者は、人恒に之を敬す。此に人有り、其の我を待つに横逆を以てすれば、則ち君子必ず自ら反するなり。『我必ず不仁ならん、必ず禮無からん。此の物奚ぞ宜しく至るべけんや。』と。其の自ら反して仁なり。自ら反して禮有り。其の橫逆由ほ是のごとくなるや、君子必ず自ら反するなり。『我必ず不忠ならん。』と。自ら反して忠なり。其の橫逆由ほ是のごとくなるや、君子曰く、『此れ亦た妄人なるのみ。此の如くんば、則ち禽獸と奚ぞ擇ばんや。禽獸に於いて又何ぞ難ぜん。』是の故に、君子には終身の憂い有るも、一朝の患い無きなり。乃ち憂うる所の若きは則ち之れ有り。『舜も人なり、我も亦た人なり。舜は法を天下に為し、後世に傳う可し。我は由ほ未だ鄉人為るを免れざるなり。』是は則ち憂う可きなり。之を憂えば如何にせん。舜の如くせんのみ。夫の君子の若きは、患いとする所は則ち亡し。仁に非ざれば為す無きなり。禮に非ざれば行う無きなり。一朝の患い有るが如きは、則ち君子は患いとせず。」
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『講孟余話』離婁上 第二十八章此の章「天下の父子為る者定まる」と云ふこと深味あり。瞽瞍は天下の頑父なれども、大舜の至孝あれば豫を底すに至る。底は致なりと註す。豫を致すとは豫を極むる心にて、至極悦豫することなり。然れば天下豈に復た事ふべからざるの父あらんや。是れ天下の父子たる者定まるなり。推して是れを広むれば父のみに非ず、君も亦然り。然らば暴君頑父と云へども、臣子たる者善く己が忠孝を尽す時は、豈に感格せざるの理あらんや。因りて臣子の心得を論ずべし。苟も君父あらん者は「労して怨みず」と云ふことを落着すべし。諫め行はれざれども、言聴かれざれども、功ありて却つて罪せられ、志ありて却つて疎んぜらるると云へども、毫末も怨心あるべからず。凡そ慈父仁君に事へて孝子となり忠臣となる者、古今少なからず、誠に吉祥善事と云ふべし。暴君頑父に事へて忠孝なる者に至りては、不幸の至り、誠に哀しむべし。然れども是れに非ざれば真の忠孝の誠意を観るに足らず。余因りて忠孝の最も不幸なる者を集輯して一書となし、以て慈父仁君に事へて不孝不忠なる者を諷せんと欲す。而して未だ及ぶに暇あらざるなり。此の篇の大要は治国平天下の大体を論じ、自ら反し己を竭すの道を主とす。
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『講孟余話』離婁下 第三十章「世俗の所謂不孝なる者五つ」。此の五条簡明的実、特に民庶に於て最も切なり。能く此の五条を真心に教諭せば、民俗を淳にするに於て良益あるべし。世教に志ある者、浅近を以て是れを忽せにすること勿れ。孟子の章子を愛敬するは、章子を罪なしと云ふに非ず、其の自ら罪を知り自ら咎悔するの誠なるを以てなり。是れ朱註に所謂「至公至仁」なり。公なる故に罪なしと云はず、仁なる故に自ら咎悔するを愛す。知るべし、古の君子の人を待つ、寛恕にして仁なる故なり、私する所なきこと、公なる故なり。今の君子は然らず。前日一過罪あれば、悔ゆと雖も悛むと雖も曾て是れを恕せず。行ひ譏るべきなき者は、其の心の必ずしも然らざる所を探りて是れを罪す。其の行ひ偶然中正を失する者あれば、更に其の心を併せて是れを罪す。殆んど古の君子に異なり。
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『講孟余話』離婁上 末章舜の瞽瞍に事ふるを引きて、自ら反し己を竭すの極則を示す、其の意深し。篇中大氏章々相承け相連なる、事煩はしければ具に論ずるに及ばず。読む者意を注して是れを観るべし。
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『講孟余話』離婁下 第二十七章礼は一定の規矩、中正の標準なり。俗の如きは或は恭に過ぎて諂に入り、傲に過ぎて慢に失する者あり、而して皆礼に非ず。若し真に礼を行はんとならば、孔孟の為す所を見て知るべし。孔子の下に拝するは、慢に失するを抑へて礼に帰するなり。孟子の言はざるは、孟子独り驩と言はず、諂に入るを矯めて礼に帰するなり。而して其の道に於けるは則ち同じ。当今礼と俗と皆孔孟の時と同じからず。然れども細かに是れを考ふるに、豈に諂慢礼を失する者なからんや。宜しく深く思ひを致すべし。是れ亦第十章「仲尼は已甚しきことを為さざる者なり」の意と、互ひに相発明すべし。
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『講孟余話』離婁上 第二十七章此の章仁義智礼楽を説くこと最も親切なり。而して其の尤も意を着くる所、楽の上にあり。足の踏み手の舞ふに至るは楽も亦盛んなり。大氏聖人の人を教へ政を行ふ、皆窮屈なる所に非ず、従容なる所に妙処あり、深く味ふべし。
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