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講孟余話 / 離婁下 第十章

孔子ハ聖人ナレハ其大成ノ德至正至中、固ヨリ論ヲ待タス、然レトモ世俗道義ヲ知ラス、或ハ孔子ノ行ヲ以テ太甚トナスニ至ル、孔子君ニ事ルニ礼ヲ以テス、而シテ人以テ諂ヘリトス、孔子南子ヲ見、佛肸ニ往キ、公山弗擾ニ往ク、子路以テ疑フコトヲナス、其政ヲ執ルニ至テハ立處ニ少正卯ヲ誅シ、夾谷ニ在テハ齊侯ヲ叱スルコト蓄狗ニ類ス、是レ皆世人ノ所謂太甚ナル者ナリ、然トモ道義ヲ以テ論スル時ハ、本分ノ外毫末ヲ加ルコトナシ、世俗ヨリ視ル時ハ皆太甚ニ非ルハナシ、有道ノ世ハ如何アラン、澆季ノ世ニ於テ道ヲ行ヒ義ヲ行ハヽ、必ス一世ノ人ヲシテ太甚ト称セシメン、若シ又太甚ノ称アルニ非ンハ、决シテ道義ニ非ス、即チ流俗ニ同シテ汙世ニ合フモノノミ

新字:孔子ハ聖人ナレハ其大成ノ徳至正至中、固ヨリ論ヲ待タス、然レトモ世俗道義ヲ知ラス、或ハ孔子ノ行ヲ以テ太甚トナスニ至ル、孔子君ニ事ルニ礼ヲ以テス、而シテ人以テ諂ヘリトス、孔子南子ヲ見、仏肸ニ往キ、公山弗擾ニ往ク、子路以テ疑フコトヲナス、其政ヲ執ルニ至テハ立処ニ少正卯ヲ誅シ、夾谷ニ在テハ斉侯ヲ叱スルコト蓄狗ニ類ス、是レ皆世人ノ所謂太甚ナル者ナリ、然トモ道義ヲ以テ論スル時ハ、本分ノ外毫末ヲ加ルコトナシ、世俗ヨリ視ル時ハ皆太甚ニ非ルハナシ、有道ノ世ハ如何アラン、澆季ノ世ニ於テ道ヲ行ヒ義ヲ行ハヽ、必ス一世ノ人ヲシテ太甚ト称セシメン、若シ又太甚ノ称アルニ非ンハ、決シテ道義ニ非ス、即チ流俗ニ同シテ汚世ニ合フモノノミ

書き下し

孔子は聖人なれば其の大成の徳、至正至中、固より論を待たず。然れども世俗道義を知らず、或は孔子の行ひを以て太甚となすに至る。孔子君に事ふるに礼を以てす、而して人以て諂へりとす。孔子南子に見え、仏肸に往かんとし、公山弗擾に往かんとす、子路以て疑ふことをなす。其の政を執るに至りては、立ちどころに少正卯を誅し、夾谷に在りては斉侯を叱すること畜狗に類す。是れ皆世人の所謂太甚なる者なり。然れども道義を以て論ずる時は、本分の外毫末を加ふることなし。世俗より視る時は皆太甚に非ざるはなし。有道の世は如何あらん、澆季の世に於て道を行ひ義を行はば、必ず一世の人をして太甚と称せしめん。若し又太甚の称あるに非ずんば、決して道義に非ず、即ち流俗に同じて汚世に合ふもののみ。

現代語訳

孔子は聖人であるから、その大成された徳がこの上なく正しく中庸を得ていることは、もとより論じるまでもない。けれども世俗の人は道義を知らないので、ときに孔子の行いを行き過ぎだとまで言う。孔子が君主に礼を尽くして仕えると、人はへつらっていると言った。孔子が南子に会い、仏肸や公山弗擾のもとへ行こうとすると、子路は疑いを抱いた。政治を執るに至っては、たちどころに少正卯を誅し、夾谷の会では斉侯を飼い犬のように叱りつけた。これらはみな世の人のいう「行き過ぎ」である。けれども道義から論じれば、本分の外に少しも加えたものはない。世俗から見れば、どれも行き過ぎでないものはない。道の行われる世ならどうだかわからないが、末世に道を行い義を行えば、必ず世の人から行き過ぎだと言われるだろう。もし行き過ぎだと言われないなら、それは決して道義ではなく、世俗に同調して汚れた世に合わせているだけである。

解説

離婁下第十章は「仲尼は已甚しきことを為さざる者なり」、孔子は度を越したことはしなかった、と説きます。松陰はこれを逆から照らします。孔子の行いは本分どおりだったのに、世俗の目には行き過ぎに見えた。だから乱れた世で道を行えば、必ず「やり過ぎだ」と言われる。言われないなら、それは世に合わせているだけだ、と。密航や老中要撃の計画で狂人扱いされた松陰自身の覚悟が透けて見えます。周りの評価を物差しにせず、本分を物差しにせよという強い言葉です。

この章句が説くこと

道義本分世俗覚悟孔子

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