講孟余話 / 離婁下 第五章
此章上篇第二十章ト義小異ナリト云トモ、要スルニ別理アルコトナシ、人君ノ戒ニ於テ此語程親切ナルハナシ、三復詳味スヘシ、且上篇記スル所ト合攷スヘシ
書き下し
此の章上篇第二十章と義小異なりと雖も、要するに別理あることなし。人君の戒めに於て此の語程親切なるはなし、三復詳味すべし。且つ上篇記す所と合はせ攷ふべし。
現代語訳
この章は上篇第二十章と意味が少し異なるとはいえ、つまるところ別の道理があるわけではない。君主への戒めとして、この言葉ほど行き届いたものはない。何度も繰り返して詳しく味わうべきである。また上篇に記したことと合わせて考えるべきである。
解説
離婁下第五章は「君仁なれば仁ならざるは莫く、君義なれば義ならざるは莫し」の一句です。松陰は、上篇第二十章で論じた、君の心を正すことが根本だという話と同じ道理だと見て、上篇の講説と合わせて読むよう勧めます。上に立つ人が仁であれば下も仁になる。その影響力の大きさを、君主への戒めとしてこれほど切実な言葉はないと評しています。短い講説ですが、組織の空気はトップから決まるという、今の職場にもそのまま当てはまる指摘です。
この章句が説くこと
君主仁義感化率先戒め
関連する章句
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『韓非子』難三第三十八且つ此れ亡王の俗、取・魯の民の自ら美とする所以にして、穆公独り之を貴ぶ、亦倒ならずや。文公出亡す。献公、寺人披をして之を蒲城に功めしむ。披、其の袪を斬る。文公、翟に奔る。恵公位に即き、又之を恵竇に功めしむるも、得ざるなり。文公国に反るに及び、披見えんことを求む。公曰く、「蒲城の役、君一宿を令するに、汝即ち至る。恵竇の難、君三宿を令するに、汝一宿す。何ぞ其れ速やかなるや。」披対へて曰く、「君令は二ならず。君の悪を除くには、惟だ堪へざるを恐る。蒲人・翟人、余に何か有らん。今公位に即く、其れ蒲・翟無からんや。且つ桓公は射鉤を置きて管仲を相とす。」君乃ち之に見ゆ。或ひと曰く、斉・晋の祀を絶つは、亦宜ならずや。
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『韓非子』難四第三十九衛の孫文子、魯に聘す。公登れば亦登る。叔孫穆子趨り進みて曰く、「諸侯の会に、寡君未だ嘗て衛君に後れず。今子は寡君に後るること一等ならず。寡君未だ過つ所を知らざるなり。子其れ少しく安んぜよ。」孫子辞無く、亦悛むる容無し。穆子退きて人に告げて曰く、「孫子必ず亡びん。亡臣にして君に後れず、過ちて悛めざるは、亡の本なり。」或ひと曰く、天子道を失へば、諸侯之を伐つ、故に湯・武有り。諸侯道を失へば、大夫之を伐つ、故に斉・晋有り。臣にして君を伐つ者必ず亡びば、則ち是れ湯・武は王たらず、晋・斉は立たざるなり。孫子は衛に君たり、而して後に魯に臣たらず、臣の君なり。君に失有り、故に臣に得有り。亡を失有るの君に命ぜずして、亡を得有るの臣に命ずるは、察せず。魯は衛の大夫を誅するを得ず、而して衛君の明は悛めざるの臣を知らず。孫子是の二つ有りと雖も、巨ぞ以て亡びん。其の亡ぶる所以を其れ失ふは、君を得る所以なり。或ひと曰く、臣主の施は、分なり。臣能く君を奪ふ者は、得を以て相踦すればなり。故に其の分に非ずして取る者は、衆の奪ふ所なり。其の分を辞して取る者は、民の予ふる所なり。是を以て桀は㟭山の女を索め、紂は比干の心を求めて、天下離る。湯は身名を易へ、武は身詈を受けて、海内服す。趙咺は山に走り、田氏は外に僕して、斉・晋従ふ。則ち湯・武の王たる所以、斉・晋の立つ所以は、必ずしも其の君を以てするに非ざるなり、彼之を得て而る後に君を以て之に処るなり。
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孫子・作戦篇故に兵は勝つを貴び、久しきを貴ばず。故に兵を知るの将は、民の司命、国家安危の主なり。
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『墨子』兼愛下然り而して天下の士の兼を非とする者の言、猶お未だ止まざるなり。曰く、「意うに以て士を擇ぶ可くして、以て君子を擇ぶ可からず」と。姑く嘗みに兩つながら之を進めん。誰か以て二君と為し、其の一君をして兼を執らしめ、其の一君をして别を執らしめん。是の故に别君の言に曰く、「吾れ惡くんぞ能く吾が萬民の身を為むること吾が身を為むるが若くせんや。此れ泰だ天下の情に非ざるなり。人の地上に生くるや㡬何も無きなり。之を譬うるに猶お駟を馳せて隙を過ぐるがごときなり」と。是の故に退きて其の萬民を睹るに、饑うるも即ち食わしめず、寒きも即ち衣せしめず、疾病あるも侍養せず、死喪あるも葬埋せず。别君の言は此くの若く、行いも此くの若し。
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『十善法語』巻第五・不綺語戒総シテ王公大人ハ其威名日月ノ如ク。其言行泰山ノ雲ノ如ク。下民仰キ瞻ル。四海則ヲトル所シヤ。ソレ故其過モ日月ノ蝕ノ如ク。万国ノ見テ知トコロシヤ。美玉ノ瑕ノ如ク。好絹ノ汚ノ如ク。掩テ掩ハレヌシヤ。民庶ノ類ハ身微ニ事眇ナル故。戯謔ニ由テ身ヲ亡スニ至ルコト少ク。仮令身ヲ亡シ家ヲ敗ルモ。人ニ知ラレ世ニ数ヘラルルニ至ラヌシヤ。此ニ至テハ君タルコト誠ニ難ト云ヘキシヤ。
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『講孟余話』告子上 第九章王の智ならざるを或しむこと無かれ。一日之を暴め、十日之を寒さば、未だ能く生ずる者有らざるなり。此の章の義、又滕文公下篇第六章、荘嶽に置くの喩、薛居州の事と、併せ考へて其の義尤も明なり。家兄伯教云く、人君たるも亦大艱と云ふべし。群臣数十百人日夜思惟し、何か一事君公の意に投じ歓に供せんことを謀る。少しく声色に顕るる者あれば、小人の逢迎至らざる所なし。一築造の役、一玩器の製より、声色狗馬に至るまで、皆然らざることなし。而して人君坐ながら其の奉承を受く。凡情に在りては愉快と思ふべし。而して超然として惑はざること、我が今公の如きは、実に剛明の資と云ふも恐れ多きことなりと。
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