講孟余話 / 離婁上 第二十七章
此章仁義智禮樂ヲ說ク最モ親切ナリ、而シテ其尤モ意ヲ着ル所樂ノ上ニアリ、足踏手舞ニ至ルハ樂モ亦盛ナリ、大氏聖人ノ人ヲ教ヘ政ヲ行フ皆窮屈ナル所ニ非ス、從容ナル所ニ妙處アリ、深ク味フヘシ
新字:此章仁義智礼楽ヲ説ク最モ親切ナリ、而シテ其尤モ意ヲ着ル所楽ノ上ニアリ、足踏手舞ニ至ルハ楽モ亦盛ナリ、大氏聖人ノ人ヲ教ヘ政ヲ行フ皆窮屈ナル所ニ非ス、従容ナル所ニ妙処アリ、深ク味フヘシ
書き下し
此の章仁義智礼楽を説くこと最も親切なり。而して其の尤も意を着くる所、楽の上にあり。足の踏み手の舞ふに至るは楽も亦盛んなり。大氏聖人の人を教へ政を行ふ、皆窮屈なる所に非ず、従容なる所に妙処あり、深く味ふべし。
現代語訳
この章は仁・義・智・礼・楽を説くのに最も行き届いている。そして最も心を注いでいるのは楽(音楽、たのしみ)の所である。思わず足が踏み手が舞うところまで至るのは、楽しみもまた盛んなのである。おおよそ聖人が人を教え政治を行うのは、みな窮屈なところにあるのではなく、ゆったりとしたところに妙味がある。深く味わうべきである。
解説
離婁上第二十七章は、仁の実は親に仕えること、義の実は兄に従うことと説き、それを楽しむところまで行けば、思わず足が踏み手が舞う、と結びます。松陰は、孟子がとくに力を込めたのはこの「楽」だと読みます。聖人の教えも政治も、窮屈に縛るところではなく、ゆったりと心が伸びるところに妙味がある、と。厳しい獄中にあって、学ぶこと自体を楽しもうとした松陰の姿が重なります。正しさを求めるほど窮屈になりがちな私たちへの、ゆとりの勧めとして読めます。
この章句が説くこと
楽しみ仁義従容教育ゆとり
関連する章句
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孟子・離婁章句上孟子曰く、「仁の實は、親に事うること是れなり。義の實は、兄に從うこと是れなり。智の實は、斯の二者を知りて去らざること是れなり。禮の實は、斯の二者を節文すること是れなり。樂の實は、斯の二者を樂しむ。樂しめば則ち生ず。生ずれば則ち惡んぞ已む可けんや。惡んぞ已む可けんやとならば、則ち足の之を蹈み、手の之を舞うを知らず。」 <語釈> ○「實」、趙注:事には皆實有り。物事の具体的な内容を意味する。○「不知足之蹈之、手之舞之」、趙注:其の心の歓喜するは、音楽を聽く者は、手舞い足蹈み、曲節に應じ、而も自ら知らざるが若きなり。
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『講孟余話』離婁下 第二十八章此の章切実痛快、宜しく一通を録し座右に貼して朝夕観省すべし。其の義明白、弁を待たず。存心の二字一章の骨子、仁礼は其の目なり。「人恒に之れを愛敬す」は是れ常を云ひ、二の「自ら反す」は是れ変を云ふ。愈々反して愈々切なり。「忠なり」と云ふに至りては自ら居ること甚だ高し。常人或は前の二反を能くすと雖も、「忠なり」に至りては多くは忿恨に堪ふること能はず、是れ其の自ら居ること妄人と均しきのみ。説いて「終身の憂ひ」「一朝の患ひ」に至りて、字々直ちに肺腸を刺すを覚ゆ。遂に「舜の如くせんのみ」に落着す。其の工夫は則ち亦仁礼の二字のみ、是れ一章首尾照応の所なり。是等の章、孟子中に在りても亦多く得べからず、況んや他書に於てをや、豈に容易に看過すべけんや。
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『講孟余話』告子上 第七章「謂ふ、理なり、義なり」。此の一句是れ全章の落着する処なり、心を付くべし。「理義の我が心を悦ばすは、猶ほ芻豢の我が口を悦ばすがごとし」。程子曰く、「此の語親切にして味有り。須らく実に理義の心を悦ばすこと、真に猶ほ芻豢の口を悦ばすがごとくなるを体察し得て始めて得べし」と。余謂へらく、本文・程説、並びに親切と云ふべし。試みに余が体察し得る所を説かん。余理義に固より敢へて自ら得る所ありと云はず。然れども好みて書を読み、最も古昔忠臣孝子義人烈婦の事を悦ぶ。朝起きてより夜寝ぬるまで、兀々孜々として、且つ読み且つ抄し、或は感じて泣き、或は喜びて躍り、自ら已むこと能はず。此の楽しみ中々他に比較すべき者あるを覚えず。況や更に良友を得て奨励切磋し、肝胆を吐露し、互ひに天下の大計を論じ、身を以て大難至険に当たらんとするに当たりて、満心の愉快比すべき者なし。此の楽しみ到る所居る所吾と相随はざるはなし。過ぐる者は追思して之を楽しみ、来たる者は予算して楽しむべし。今美肉嘉肴ありと云へども、一飽の余り復た顧みるに意なし。麦飯菜羹と云へども一日三食すれば復た求むる者なし。且つ理義の楽しみ胸中に充溢するに方りては、孔子の所謂肉味を知らざる如き者あり。蓋し飢ゑて食を忘れ、渇して飲を忘れ、寒くして衣を忘れ、寝ねて寐を忘るる者、是より甚しきはなし。是れ余が自心体察し得る所なり。故に余断じて云く、理義の我が心を悦ばすは芻豢の比すべきに非ざるなり。
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『講孟余話』離婁下 第五章此の章上篇第二十章と義小異なりと雖も、要するに別理あることなし。人君の戒めに於て此の語程親切なるはなし、三復詳味すべし。且つ上篇記す所と合はせ攷ふべし。
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『講孟余話』離婁下 第三十三章此の章富貴利達を求むるの人を恥かしむ、痛快と云ふべし。此の種の人物頑鈍無恥、古今同流、国の萎靡振はざる、実に是れに由る。願はくは大有力の人ありて、此の章を三復して其の人を罵詈し、以て廉恥の風を一振したきことなり。離婁の篇茲に終る。孟子先生意あることにや、離婁下篇凡そ三十三章、甚だ条理あるを見ず。但し首章「先聖後聖其の揆一なり」に始まり、第二十九章「禹稷顔回道を同じうす」とあり、第三十一章「曾子子思道を同じうす」とあり、三章同意にして皆時中の義を明かす。又舜第十九章、禹湯文武周公第二十章、孔子第二十一章、及び自ら言ふの章第二十二章の如き、亦群聖時に中するの意を見す。因りて知る、通篇時に中するの義、且つ世俗の惑ひを解き誤りを正す者多し。子産の恵第二章、旧君の服第三章、仲尼の甚第十章、羿の罪第二十四章、公行子の喪第二十七章、匡章の不孝第三十章の諸章、尤も明らかなり。其の他推して知るべし。然れども深く拘ることなかれ。
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『講孟余話』盡心上 第九章「徳を尊び義を楽しめば、則ち以て囂々たるべし。故に士は窮しても義を失はず、達しても道を離れず。窮しても義を失はず、故に士は己を得。達しても道を離れず、故に民望を失はず。古の人、志を得れば、沢民に加はり、志を得ざれば、身を脩めて世に見はる。窮すれば則ち独り其の身を善くし、達すれば則ち兼ねて天下を善くす」。此の章大いに吾が心を得、因りて繁を厭はず其の全文を挙ぐ。宜しく反覆熟誦すべし。囂々の二字是れ全章の主意なり。尊徳楽義の四字是れ其の工夫なり。尊徳と云ふに両義あり。公孫丑下篇第二章に、「其の徳を尊び道を楽しむこと是くの如くならざれば、与に為すこと有るに足らず」の尊徳は、有徳の人を尊崇することなり。此の本文も夫れにて済むなり。又中庸に「徳性を尊ぶ」と云ふことあり。是れは己れに存する徳性を自ら恭敬奉持するを云ふ。是れ自ら一義なり。然れども徳は一なり。己れに存するを尊ぶ、故に人に在るを尊ぶ。本是れ一貫の事なり。畢竟本文徳の字、固より己の徳と云はず、又人の徳と云はず、唯是れ徳なり。楽義も亦然り。天下の徳義を尊崇し、更に人己を分つことなし。是れ囂々然として自得無欲なる所以なり。
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