導師導古典を学びたいすべての人に

講孟余話 / 離婁上 第二十二章

岡白駒、孟子解、人之輕易其言者、以無身任之責耳、若身任其責、則知其爲之難、豈敢輕易苟言哉ト、此說先ツ吾意ヲ獲タリ、無責耳矣、此章註已ニ明ナリ、但シ無責耳矣ノ一句ニ於テ余窃ニ一說アリ、責ハ言責ノ責ト同シ、責任ナリ、無責トハ自ラ責トシ自ラ任トスル所ナキナリ、凡ソ人ノ言語ヲ容易ニスルハ自ラ責任トスル所ナキヲ以テナリ、苟モ實行ヲ以テ自ラ責任トスルナラハ、言語モ容易ニハナル間敷ナリ、君子ハ言ニ訥ニニシテ行ニ敏ナランコトヲ欲スト云ト意相似タリ

新字:岡白駒、孟子解、人之軽易其言者、以無身任之責耳、若身任其責、則知其為之難、豈敢軽易苟言哉ト、此説先ツ吾意ヲ獲タリ、無責耳矣、此章註已ニ明ナリ、但シ無責耳矣ノ一句ニ於テ余窃ニ一説アリ、責ハ言責ノ責ト同シ、責任ナリ、無責トハ自ラ責トシ自ラ任トスル所ナキナリ、凡ソ人ノ言語ヲ容易ニスルハ自ラ責任トスル所ナキヲ以テナリ、苟モ実行ヲ以テ自ラ責任トスルナラハ、言語モ容易ニハナル間敷ナリ、君子ハ言ニ訥ニニシテ行ニ敏ナランコトヲ欲スト云ト意相似タリ

書き下し

岡白駒の孟子解に、「人の其の言を軽易にする者は、身に之れが責を任ずること無きを以てのみ。若し身に其の責を任ずれば、則ち其の之れを為すことの難きを知る、豈に敢へて軽易に苟も言はんや」と。此の説先づ吾が意を獲たり。「責無きのみ」、此の章註已に明なり。但し「責無きのみ」の一句に於て余窃かに一説あり。責は言責の責と同じ、責任なり。責無しとは、自ら責とし自ら任とする所なきなり。凡そ人の言語を容易にするは、自ら責任とする所なきを以てなり。苟も実行を以て自ら責任とするならば、言語も容易にはなるまじきなり。「君子は言に訥にして行ひに敏ならんことを欲す」と云ふと意相似たり。

現代語訳

岡白駒の『孟子解』に「人が軽々しく物を言うのは、その責任を自分で負っていないからにすぎない。もし自分がその責任を負うなら、それを行う難しさが分かるから、どうして軽々しく言えようか」とある。この説はまず私の考えにかなう。「責なきのみ」について、この章の注釈はすでに明らかである。ただこの一句について、私にはひそかに一つの考えがある。責は「言責」の責と同じで、責任のことである。責がないとは、自分で責めとし自分の任とするところがないということだ。およそ人が言葉を軽く扱うのは、自分の責任とするものがないからである。もし実行を自分の責任とするならば、言葉も軽くはならないはずである。「君子は言葉には口重く、行いには素早くありたい」(『論語』)というのと意味がよく似ている。

解説

離婁上第二十二章「人の其の言を易くするは、責無きのみ」についての講説です。松陰は江戸中期の儒者岡白駒の注を引いて、言葉が軽くなるのは自分で責任を負っていないからだと読みます。実行を自分の任と引き受けた人は、そのぶん言葉が重くなる。『論語』里仁篇の「言に訥にして行ひに敏」と同じ意味だと結びます。口先の議論を嫌い、行動を重んじた松陰の学風がよく表れた一節です。発言の軽さに気づいたら、その事を自分が引き受けているかを問い直すとよいでしょう。

この章句が説くこと

責任言葉実行論語慎重

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る