呻吟語 / 内篇・修身・有道の言と有德の言
有道之言,將之心悟;有德之言,得之躬行。有道之言弘暢,有德之言親切。有道之言如遊萬貨之肆,有德之言如發萬貨之商。有道者不容不言;有德者無俟於言,雖然,未嘗不言也,故曰:「有德者必有言。」
新字:有道之言,将之心悟;有徳之言,得之躬行。有道之言弘暢,有徳之言親切。有道之言如遊万貨之肆,有徳之言如発万貨之商。有道者不容不言;有徳者無俟於言,雖然,未嘗不言也,故曰:「有徳者必有言。」
書き下し
有道の言は、之を心悟に將ふ。有德の言は、之を躬行に得。有道の言は弘暢なり、有德の言は親切なり。有道の言は萬貨の肆に遊ぶが如く、有德の言は萬貨の商を發するが如し。有道者は言はざるを容れず、有德者は言を俟つ無し。然りと雖も、未だ嘗て言はずんばあらず。故に曰く、「德有る者は必ず言有り」と。
現代語訳
道を得た人の言葉は、心の悟りから持ってきます。徳を得た人の言葉は、自分で行った所から得ます。道を得た人の言葉は広く伸びやかで、徳を得た人の言葉は身に近く切実です。道を得た人の言葉は万の品を並べた店を歩くようで、徳を得た人の言葉は万の品を送り出す商人のようです。道を得た人は言わずにいられず、徳を得た人は言葉を待ちません。それでも語らないわけではありません。だから、徳のある者には必ず言葉があると言うのです。
解説
言葉を二種に分け、出どころで区別します。悟りから来る言葉と、実行から来る言葉。前者は広く伸びやかで、後者は身に近く切実です。店を歩く客と品を送り出す商人というたとえが鮮やかで、前者は見て回る側、後者は出す側になります。そして道の人は語らずにいられず、徳の人は語る必要が無い、しかし語らないわけではない。話す量ではなく、出どころで言葉を測る視点が示されています。

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言葉道徳実行出どころ
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