講孟余話 / 滕文公下 第八章
成周井田ノ法、什一ノ稅、破壞已ニ久シ、春秋魯ノ宣公ノ時ヨリ、旣ニ私田ヲ征スルコト見ユレハ、戰国ノ時ニ至リ、其重稅苛斂推シテ知ルヘシ、今一旦什一ノ稅ヲ用ヒ、剩ヘ關市ノ征ヲモ去テントスルコト、豈容易ナランヤ、凢国用限アリ、非常ノ節儉ヲ行フニ非スンハ、何ヲ以テ数百年來仕來ノ征稅ヲ輕クスルコトヲ得ンヤ、戴盈之來年ヲ待テ是ヲ已メント云ハ、勇断ニ非スンハ安ソ能如是ナランヤ、然ルニ孟子乃チ鄰ノ雞ヲ攘ム者ニ比スルハ、豈甚シカラスヤ、余謂フニ井田ノ廃久シ、中々大勇断ニテ非常ノ節儉ヲ用ユルニ非レハ成ラサルコトナルヲ、盈之容易ニ是ヲ云フ、是虛言ノミニシテ実心アルニ非ス、故ニ孟子深ク是ヲ拒絕スルナリ、
新字:成周井田ノ法、什一ノ税、破壊已ニ久シ、春秋魯ノ宣公ノ時ヨリ、既ニ私田ヲ征スルコト見ユレハ、戦国ノ時ニ至リ、其重税苛斂推シテ知ルヘシ、今一旦什一ノ税ヲ用ヒ、剰ヘ関市ノ征ヲモ去テントスルコト、豈容易ナランヤ、凢国用限アリ、非常ノ節倹ヲ行フニ非スンハ、何ヲ以テ数百年来仕来ノ征税ヲ軽クスルコトヲ得ンヤ、戴盈之来年ヲ待テ是ヲ已メント云ハ、勇断ニ非スンハ安ソ能如是ナランヤ、然ルニ孟子乃チ鄰ノ鶏ヲ攘ム者ニ比スルハ、豈甚シカラスヤ、余謂フニ井田ノ廃久シ、中々大勇断ニテ非常ノ節倹ヲ用ユルニ非レハ成ラサルコトナルヲ、盈之容易ニ是ヲ云フ、是虚言ノミニシテ実心アルニ非ス、故ニ孟子深ク是ヲ拒絶スルナリ、
書き下し
成周井田の法、什一の税、破壊已に久し。春秋魯の宣公の時より、既に私田を征することを見ゆれば、戦国の時に至り、其の重税苛斂推して知るべし。今一旦什一の税を用ひ、剰へ関市の征をも去てんとすること、豈に容易ならんや。凡そ国用限りあり、非常の節倹を行ふに非ずんば、何を以て数百年来仕来りの征税を軽くすることを得んや。戴盈之来年を待ちて是れを已めんと云ふは、勇断に非ずんば安んぞ能く是くの如くならんや。然るに孟子乃ち隣の鶏を攘む者に比するは、豈に甚しからずや。余謂ふに、井田の廃久し、中々大勇断にて非常の節倹を用ふるに非ざれば成らざることなるを、盈之容易に是れを云ふ。是れ虚言のみにして実心あるに非ず。故に孟子深く是れを拒絶するなり。
現代語訳
周の盛時の井田の法と、収穫の十分の一という税は、崩れてからもう久しい。春秋時代の魯の宣公のときから、すでに私有の田に課税したことが見えるのだから、戦国時代になると、その重税と厳しい取り立ては推して知るべきである。いま一挙に十分の一の税に戻し、そのうえ関所や市場の税までやめようとするのは、どうして容易であろうか。およそ国の財政には限りがあり、非常の倹約をしなければ、数百年来続いてきた税をどうして軽くできようか。宋の大夫戴盈之が「来年まで待ってやめよう」と言ったのは、勇断がなければ言えないことのようにも見える。それなのに孟子がこれを、隣の鶏を盗む者にたとえたのは、言い過ぎではないか。私の考えでは、井田が廃れてから久しく、よほどの大勇断で非常の倹約をしなければできないことなのに、盈之はそれを軽々しく口にした。これはただの空言であって、本気の心があるのではない。だから孟子は強くこれを退けたのである。
解説
この章句が説くこと
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