講孟余話 / 滕文公下 第五章
葛伯放而不祀、湯使人問之、葛伯祀ヲ廃シテ、湯コレヲ問ハシムル者何ソヤ、祀ハ忠孝ノ道ナリ、祀ヲ廃スレハ忠孝並ニ廃シテ、人道滅スルニ近シ、湯豈コレヲ問ハサランヤ、凢ソ祀ノ義、聖賢ノ論具ニ経史ニ見ユ、今必シモ贅セス、但前章ニ出ル諸侯耕助、以供粢盛、夫人蠶繅、以爲衣服ト云ニテモ、其大意ヲ知ルヘシ、先ツ諸侯モ手ツカラ籍田ヲ耕シ、庶人助ケテ畝ヲ終レハ、供スル所ノ粢盛ハ、人君ノ孝心ト庶民ノ忠心ト合セテ成ル所ニシテ、殊ニ祭ノ衣服ハ君夫人ノ親シク世婦ヲ率ヒテ織成スル者ナレハ、是亦忠孝ノ義ヲ兼ル者ナリ、君臣一致シ忠孝合体シテ行フ所ノ祭祀ヲ廃スルコト、豈人道ノ滅スルニ非スヤ、国ヲ観ル者宜シク是等ノ処ニ心ヲ付クヘキナリ
新字:葛伯放而不祀、湯使人問之、葛伯祀ヲ廃シテ、湯コレヲ問ハシムル者何ソヤ、祀ハ忠孝ノ道ナリ、祀ヲ廃スレハ忠孝並ニ廃シテ、人道滅スルニ近シ、湯豈コレヲ問ハサランヤ、凢ソ祀ノ義、聖賢ノ論具ニ経史ニ見ユ、今必シモ贅セス、但前章ニ出ル諸侯耕助、以供粢盛、夫人蠶繅、以為衣服ト云ニテモ、其大意ヲ知ルヘシ、先ツ諸侯モ手ツカラ籍田ヲ耕シ、庶人助ケテ畝ヲ終レハ、供スル所ノ粢盛ハ、人君ノ孝心ト庶民ノ忠心ト合セテ成ル所ニシテ、殊ニ祭ノ衣服ハ君夫人ノ親シク世婦ヲ率ヒテ織成スル者ナレハ、是亦忠孝ノ義ヲ兼ル者ナリ、君臣一致シ忠孝合体シテ行フ所ノ祭祀ヲ廃スルコト、豈人道ノ滅スルニ非スヤ、国ヲ観ル者宜シク是等ノ処ニ心ヲ付クヘキナリ
書き下し
「葛伯放にして祀らず、湯人をして之れを問はしむ」。葛伯祀りを廃して、湯これを問はしむる者は何ぞや。祀りは忠孝の道なり。祀りを廃すれば忠孝並びに廃して、人道滅するに近し。湯豈にこれを問はざらんや。凡そ祀りの義、聖賢の論具さに経史に見ゆ。今必ずしも贅せず。但し前章に出づる「諸侯は耕助して以て粢盛に供し、夫人は蚕繅して以て衣服を為る」と云ふにても、其の大意を知るべし。先づ諸侯も手づから籍田を耕し、庶人助けて畝を終ふれば、供する所の粢盛は、人君の孝心と庶民の忠心と合はせて成る所にして、殊に祭りの衣服は君夫人の親しく世婦を率ゐて織り成す者なれば、是れ亦忠孝の義を兼ぬる者なり。君臣一致し忠孝合体して行ふ所の祭祀を廃すること、豈に人道の滅するに非ずや。国を観る者、宜しく是等の処に心を付くべきなり。
現代語訳
「葛伯は勝手気ままで祭祀を行わなかった。湯王は人をやってそのわけを問わせた」。葛伯が祭祀をやめたことを、湯王が問いただしたのはなぜか。祭祀は忠と孝の道だからである。祭祀をやめれば忠も孝もともにすたれ、人の道が滅びるのに近い。湯王がこれを問わずにいられようか。およそ祭祀の意義については、聖賢の論が経書や史書に詳しく見える。いまここで繰り返すまでもない。ただ、前章に出てくる「諸侯は自ら田を耕し民がそれを助けて、祭りに供える穀物とし、夫人は蚕を飼い糸を繰って祭りの衣服を作る」という言葉だけでも、その大意はわかる。まず諸侯も自ら儀式の田を耕し、民が手伝って耕し終えれば、供える穀物は君主の孝心と民の忠心とが合わさってできたものとなる。とくに祭りの衣服は君主の夫人が自ら女官を率いて織り上げるものだから、これも忠孝の意義を兼ねている。君臣が一つになり、忠と孝が一体となって行う祭祀をやめることは、人の道が滅びることではないか。国を見る者は、こういうところに目を付けるべきである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『呻吟語』内篇・倫理・福を求むるは已に君子の心に非ず郊社は、天地生成の大德に報ゆるなり。然れども災沴には禳有り、順成には祈有り。君の私田を為すは則ち仁、民の公田を為すは則ち忠なり。福を求むるを嫌はず、禍を免るるを嫌はず。子孫の先祖を祭るは、追養繼孝を以てなり。我が祖父母より此の身有るなり。曰く、「先人の澤に賴りて、以て其の餘慶を享く」と。曰く、「吾朝夕奉養して歡を承けしに、一旦復た杯棬を獻ぜず、心悲思して寄する無し、故に祭薦して以て吾が情を伸ぶるなり」と。曰く、「吾貧賤にして菽水を供するに足らず、今鼎食するも親逮ばず、心悲思して及ぶ莫し、故に祭薦して以て吾が悔いを志すなり」と。豈に其の遊魂虛位の能く我を福せんが為に之を求めんや。福を求むるは已に君子の心に非ず。而して一飯の設、數拜の勤を以て、福を先人に求む、仁孝誠敬の心果たして是くのごとくならんや。利を謀らず、報を責めず、其の感激を望まず。他人に在りてすら猶ほ然り、而るに況んや我が先人をや。『詩』の祭は必ず福を言ふ、而して『楚茨』の諸詩を尤も甚だしと為す、豈に訓と為す可けんや。吾獨り『采蘩』『采蘋』の二詩に取る有り。物を盡くし志を盡くし、以て吾が子孫の誠敬を達するのみ、他は及ばざるなり。此の道に明らかならば、則ち天下の萬事萬物皆我の當に為すべき所を盡くし、禍福利害は皆其の自ら至るに聽す。人事脩まりて外慕の心息み、道に向かふこと專らにして作輟の念忘れん。何者ぞ。性分に明らかにして冀悻する所無ければなり。
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『呻吟語』外篇・品藻・古人の笑ふ所宋儒は古に泥み、更に古昔の真偽、今世の是非を考へず。只だ祭祀一節の如し。古人は席地にして飲食に便ならず。故に簠簋籩豆を尚び、其の器は皆な高し。今古人を祭るに之を用ふるは、其の時に從ふなり。子孫の祖考を祭るは、只だ祖考の常に用ひし所の宜しきを用ふ可し。而るに簠簋籩豆是れ設くるは可ならんや。諸の此の類の如きは甚だ多く、皆な古人の笑ふ所なり。古人をして今に生まれしめば、舉動必ず此の如くならざらん。
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『墨子』明鬼下今、無鬼を執る者曰く、意うに親の利に忠ならずして、孝子を害するを為さんか、と。子墨子曰く、古今の鬼を為すは、他に非ざるなり。天鬼有り、亦た山川鬼神なる者有り、亦た人、死して鬼と為る者有り。今、子の其の父に先んじて死し、弟の其の兄に先んじて死する者有り。意うに死すること然りと雖も、然り而して天下の陳物、曰く、先に生まるる者は先に死す、と。是くの若くんば、則ち先に死する者は父に非ざれば則ち母、兄に非ざれば而ち姒なり。今、潔く酒醴粢盛を為りて、以て敬み慎みて祭祀す。若し鬼神をして誠に有らしめば、是れ其の父母姒兄を得て之に飲食せしむるなり。豈に厚利に非ざらんや。
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『呻吟語』内篇・談道・鑿ちて求む可からず、道破す可からず鬼神を敬事するは、聖人の世教を維持する大端なり。其の義は深く、其の功は大なり。但だ自ら鑿ちて求む可からず、道破す可からざるのみ。
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『都鄙問答』卷之二・鬼神ヲ遠ト云事ヲ問ノ段又問、或人云、子曰、其の鬼に非ずして之を祭るは諂ひなりと、祭べからずとのたまふ。我朝には、土地の神、又太神宮といへども、御恩の為に、五穀の出来、初穂や或は神楽などを捧奉ることなれば、兎角唐土とは違有と云り。然るに汝、神は一列の如くに云へるは、如何なることぞ。
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