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講孟余話 / 滕文公上 第五章

蓋有上世嘗不葬其親者云々、此一節親ヲ葬ルハ人ノ至情ニ原クコトヲ論ス、盖シ情ノ至極ハ理モ亦至極セル者ナリ、余常ニ謂ラク、凢百ノ事皆情ノ至極ヲ行ヘハ、仁用ユルニ勝ユヘカラズ、特ニ葬祭祈禳等ノ事皆至情ニ出ツルナリ、夫人死スレハ魂ハ天ニ帰シ魄ハ地ニ帰ス、葬ルト葬ラヌト、祭ルト祭ラヌト、死人ノ心ニ於テ曾テ關係アルコトナシ、然ルニ人ノ情トシテ、死タリトテ死セリトスルニ忍ヒス、亡タリトテ亡タリトスルニ忍ヒス、父ノ植置タル桐梓ヲ見テサヘ、恭敬ノ念起リ、父ノ手澤ノ存スル書、母ノ口澤ノ存スル桮棬ヲ見テサヘ、読ムニ忍ヒス飮ムニ忍ヒサルハ皆人情ナリ、况ヤ父母ノ骸骨ヲ葬サル者アランヤ、父母ノ墳墓宗廟ヲ祭ラサル者アランヤ、故ニ葬祭ハ皆人情ナリ、人情ハ愚ヲ貴フ、益々愚ニシテ益至レルナリ、若シ智ヲ貴ヒ理ヲ以テ言フ時ハ、死人ノ骸骨ハ魂魄已ニ去ル、原野ニ投スルモ可ナリ、狐狸ニ飽シムルモ可ナリト云ニ至ル、而シテ人情ヲ如何セン、又或ハ葬サレハ精靈ガ迷フト云ヒ、祭ラ子ハ罰ヲ蒙ルノ、禍ヲ受ルノト云ハ、人情ニ似タレトモ、畢竟己カ利害禍福ヨリ起ル所ノ見ニシテ、亦人情ノ至極ニ非ス、祈禱ノ事ニ至テハ余別ニ論ス、故ニ茲ニ贅セズ、

新字:蓋有上世嘗不葬其親者云々、此一節親ヲ葬ルハ人ノ至情ニ原クコトヲ論ス、盖シ情ノ至極ハ理モ亦至極セル者ナリ、余常ニ謂ラク、凢百ノ事皆情ノ至極ヲ行ヘハ、仁用ユルニ勝ユヘカラズ、特ニ葬祭祈禳等ノ事皆至情ニ出ツルナリ、夫人死スレハ魂ハ天ニ帰シ魄ハ地ニ帰ス、葬ルト葬ラヌト、祭ルト祭ラヌト、死人ノ心ニ於テ曽テ関係アルコトナシ、然ルニ人ノ情トシテ、死タリトテ死セリトスルニ忍ヒス、亡タリトテ亡タリトスルニ忍ヒス、父ノ植置タル桐梓ヲ見テサヘ、恭敬ノ念起リ、父ノ手沢ノ存スル書、母ノ口沢ノ存スル桮棬ヲ見テサヘ、読ムニ忍ヒス飲ムニ忍ヒサルハ皆人情ナリ、況ヤ父母ノ骸骨ヲ葬サル者アランヤ、父母ノ墳墓宗廟ヲ祭ラサル者アランヤ、故ニ葬祭ハ皆人情ナリ、人情ハ愚ヲ貴フ、益々愚ニシテ益至レルナリ、若シ智ヲ貴ヒ理ヲ以テ言フ時ハ、死人ノ骸骨ハ魂魄已ニ去ル、原野ニ投スルモ可ナリ、狐狸ニ飽シムルモ可ナリト云ニ至ル、而シテ人情ヲ如何セン、又或ハ葬サレハ精霊ガ迷フト云ヒ、祭ラ子ハ罰ヲ蒙ルノ、禍ヲ受ルノト云ハ、人情ニ似タレトモ、畢竟己カ利害禍福ヨリ起ル所ノ見ニシテ、亦人情ノ至極ニ非ス、祈祷ノ事ニ至テハ余別ニ論ス、故ニ茲ニ贅セズ、

書き下し

「蓋し上世嘗て其の親を葬らざる者有り」云々。此の一節、親を葬るは人の至情に原づくことを論ず。蓋し情の至極は理も亦至極せる者なり。余常に謂へらく、凡百の事皆情の至極を行へば、仁用ふるに勝ふべからず。特に葬祭祈禳等の事、皆至情に出づるなり。夫れ人死すれば魂は天に帰し魄は地に帰す。葬ると葬らぬと、祭ると祭らぬと、死人の心に於て曽て関係あることなし。然るに人の情として、死したりとて死せりとするに忍びず、亡びたりとて亡びたりとするに忍びず。父の植ゑ置きたる桐梓を見てさへ恭敬の念起り、父の手沢の存する書、母の口沢の存する桮棬を見てさへ、読むに忍びず飲むに忍びざるは皆人情なり。況んや父母の骸骨を葬らざる者あらんや、父母の墳墓宗廟を祭らざる者あらんや。故に葬祭は皆人情なり。人情は愚を貴ぶ、益々愚にして益々至れるなり。若し智を貴び理を以て言ふ時は、死人の骸骨は魂魄已に去る、原野に投ずるも可なり、狐狸に飽かしむるも可なりと云ふに至る。而して人情を如何せん。又或いは葬らざれば精霊が迷ふと云ひ、祭らねば罰を蒙るの、禍を受くるのと云ふは、人情に似たれども、畢竟己が利害禍福より起る所の見にして、亦人情の至極に非ず。祈祷の事に至りては余別に論ず。故に茲に贅せず。

現代語訳

孟子が「思うに、大昔には親を葬らない者がいた」云々と言う一節は、親を葬るのは人の真情に基づくことを論じている。思うに、情の極みは理の極みでもある。私はいつも考えている。どんなことでも情の極みを行えば、仁は使い切れないほどになる。とくに葬儀や祭祀、祈りなどはみな真情から出るものである。そもそも人が死ねば、魂は天に、魄は地に帰る。葬っても葬らなくても、祭っても祭らなくても、死者の心には何の関係もない。それなのに人の情として、死んだからといって死んだものと扱うことに忍びず、亡くなったからといって亡くなったものと割り切ることに忍びない。父が植えておいた桐や梓の木を見てさえ敬う気持ちが起こり、父の手の跡が残る書物、母の口の跡が残る杯を見てさえ、読むに忍びず飲むに忍びないのは、みな人情である。まして父母の亡骸を葬らない者があろうか、父母の墓や祖先の廟を祭らない者があろうか。だから葬祭はすべて人情なのである。人情は愚直さを貴ぶ。愚直であるほど、いよいよ真情に至る。もし賢さを貴び理屈で言えば、死者の亡骸からは魂魄がもう去ったのだから、野に捨ててもよい、狐や狸に食わせてもよい、ということになる。だが、それでは人の情をどうするのか。また、葬らなければ霊が迷うとか、祭らなければ罰が当たる、禍を受けるなどと言うのは、人情のようでいて、結局は自分の損得や禍福から出た考えであり、人情の極みではない。祈祷のことについては別に論じたので、ここでは繰り返さない。

解説

孟子は、昔の人が親の亡骸を谷に捨て、後に獣に食われているのを見て額に汗し、土をかぶせたのが葬礼の始まりだと語りました。松陰はここから、葬祭の根は理屈でなく人情にあると説きます。死者には何の得もないと理で割り切れば、亡骸を野に捨ててもよいことになる。しかし親の植えた木や使った杯にさえ手を付けかねるのが人の心であり、その「愚」こそが尊いのだと言います。祟りを恐れて祭るのは損得の計算にすぎず、真の情ではないとも付け加えます。合理だけでは割り切れない弔いの心を、真正面から肯定した一節です。

この章句が説くこと

人情葬祭弔い愚直孝

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