講孟余話 / 滕文公上 第五章
義朝保元ノ乱ニ父爲義ト戰フ、是王事ナリ、此時君重シ、父ヲ顧ルコトヲ得ス、後遂ニ父ヲ誅スルニ至テハ惡逆更ニ論スルヲ待タズ、此時ハ父ト死ヲ同スヘシ、北條氏直ノ臣松田英春ト云者アリ、其父憲秀敵方ヘ内通ス、英春號泣シテ固ク諫ム、憲秀聽カス、英春窃カニ氏直ニ見ヘ、父ノ死ヲ宥メンコトヲ誓テ後是ヲ告ク、氏直誓ニ負キ、憲秀ノ死ヲ宥セス、是英春モ亦善ク處スト云ヘシ、此時君重シ、而シテ英春其父ニ從テ死セズ、又北条氏ノ爲ニモ死セズ、剩ヘ後來前田氏ニ事フ、此大罪宥スベカラズ、此類甚タ多シ、熟考スベシ、養父実父並ビ立ツ時ハ、又養父ヲ重シトス、雖然、君父ト云ヒ養実父母ト云フ、軽重アリト云トモ些ノ間テノミ、要之皆其爲ニ吾死ヲ致スヘキ所ナレハ、一旦ハ重キ方ノ爲ニ、輕キ方ヲ棄テ顧ミサルコトモアレトモ、其事終ル時ハ、又前ノ罪過ヲ償フヘキコト固ナリ、義朝英春ノ如ク、父ヲ死セシメテ子独リ生テ居ルコト、実ニ天地ニ容レサルノ大罪ト云ヘシ、是皆事急勢迫リタル時ノ事ナリ、宜シク平日ニ講論シテ、時ニ臨テ誤ルコトナカレ、猶此他云ヘキ者多ケレトモ別ニ論スヘシ、
新字:義朝保元ノ乱ニ父為義ト戦フ、是王事ナリ、此時君重シ、父ヲ顧ルコトヲ得ス、後遂ニ父ヲ誅スルニ至テハ悪逆更ニ論スルヲ待タズ、此時ハ父ト死ヲ同スヘシ、北条氏直ノ臣松田英春ト云者アリ、其父憲秀敵方ヘ内通ス、英春号泣シテ固ク諫ム、憲秀聴カス、英春窃カニ氏直ニ見ヘ、父ノ死ヲ宥メンコトヲ誓テ後是ヲ告ク、氏直誓ニ負キ、憲秀ノ死ヲ宥セス、是英春モ亦善ク処スト云ヘシ、此時君重シ、而シテ英春其父ニ従テ死セズ、又北条氏ノ為ニモ死セズ、剰ヘ後来前田氏ニ事フ、此大罪宥スベカラズ、此類甚タ多シ、熟考スベシ、養父実父並ビ立ツ時ハ、又養父ヲ重シトス、雖然、君父ト云ヒ養実父母ト云フ、軽重アリト云トモ些ノ間テノミ、要之皆其為ニ吾死ヲ致スヘキ所ナレハ、一旦ハ重キ方ノ為ニ、軽キ方ヲ棄テ顧ミサルコトモアレトモ、其事終ル時ハ、又前ノ罪過ヲ償フヘキコト固ナリ、義朝英春ノ如ク、父ヲ死セシメテ子独リ生テ居ルコト、実ニ天地ニ容レサルノ大罪ト云ヘシ、是皆事急勢迫リタル時ノ事ナリ、宜シク平日ニ講論シテ、時ニ臨テ誤ルコトナカレ、猶此他云ヘキ者多ケレトモ別ニ論スヘシ、
書き下し
義朝、保元の乱に父為義と戦ふ。是れ王事なり。此の時君重し、父を顧ることを得ず。後遂に父を誅するに至りては悪逆更に論ずるを待たず。此の時は父と死を同じくすべし。北条氏直の臣、松田英春と云ふ者あり。其の父憲秀、敵方へ内通す。英春号泣して固く諫む。憲秀聴かず。英春窃かに氏直に見え、父の死を宥めんことを誓ひて後是れを告ぐ。氏直誓ひに負き、憲秀の死を宥さず。是れ英春も亦善く処すと云ふべし。此の時君重し。而して英春其の父に従ひて死せず、又北条氏の為めにも死せず、剰へ後来前田氏に事ふ。此の大罪宥すべからず。此の類甚だ多し、熟考すべし。養父実父並び立つ時は、又養父を重しとす。然りと雖も、君父と云ひ、養実父母と云ふ、軽重ありと云へども些の間のみ。之れを要するに皆其の為めに吾が死を致すべき所なれば、一旦は重き方の為めに軽き方を棄てて顧みざることもあれども、其の事終る時は、又前の罪過を償ふべきこと固よりなり。義朝・英春の如く、父を死せしめて子独り生きて居ること、実に天地に容れざるの大罪と云ふべし。是れ皆事急に勢ひ迫りたる時の事なり。宜しく平日に講論して、時に臨みて誤ることなかれ。猶此の他云ふべき者多けれども、別に論ずべし。
現代語訳
源義朝は保元の乱で父の為義と戦った。これは朝廷のための戦いであり、このときは君が重く、父を顧みることはできない。しかし後に父を斬るに至っては、その悪逆は論じるまでもない。このときは父と死を共にすべきであった。北条氏直の家臣に松田英春という者がいた。父の憲秀が敵方に内通した。英春は泣いて固く諫めたが、憲秀は聞き入れない。英春はひそかに氏直に会い、父の命を助けると誓わせたうえでこれを告げた。氏直は誓いに背き、憲秀を許さなかった。ここまでは英春もよく身を処したと言える。このときは君が重い。ところが英春は父に従って死なず、北条氏のためにも死なず、そのうえ後に前田氏に仕えた。この大罪は許せない。このような例はたいへん多い。よく考えるべきである。養父と実父が並び立つときは、養父を重しとする。とはいえ、君と父、養父母と実父母のあいだに軽重があるといっても、わずかな差にすぎない。要するに、どれもそのために自分の命を捧げるべき相手であるから、いったんは重い方のために軽い方を捨てて顧みないことがあっても、事が終われば、先の罪を償うべきなのは当然である。義朝や英春のように、父を死なせて子だけが生きているのは、まことに天地に容れられない大罪である。これらはみな、事が急で情勢が切迫したときのことである。普段から論じ合っておき、いざというときに誤ってはならない。なお言うべきことは多いが、別に論じよう。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『墨子』號令國を安んずるの道は、道、地に任ずるより始まる。地、其の任を得れば則ち功成り、地、其の任を得ざれば則ち勞して功無し。人も亦た此を為す。備え、先に具えざる者は以て主を安んずる無し。吏卒民、多く心の一ならざる者は、皆な其の将長に在り。諸そ賞罰を行い及び治むること有る者は、必ず公より出づ。王、數しば人をして行き勞わしめ、邉城關塞を守り、蠻夷に備うるの勞苦なる者に賜い、其の守率の財用の餘り有ると足らざるとを舉げ、地形の當に邉を守るべき者、其の器備の常に多き者を舉ぐ。邉の縣邑は、其の樹木の惡しきを視れば、則ち用を少なくす。田、辟けざれば、食を少なくす。大屋・草盖無ければ、乗を用うるを少なくす。財多ければ、民、食を好む。内堞を為り、内に行棧し、器備を其の上に置く。城上の吏・卒・養は、皆な舍を道の内に為り、各おの其の隔部に當たる。養は十二人。符を為る者を養吏一人と曰い、諸門を辦護す。門者及び守禁有る者は、皆な事無き者をして其の旁らに稽留するを得しむる無かれ。令に従わざる者は戮す。敵人、但だ至らば、千丈の城は、必ず郭、之に近づき、主人、利し。千丈を盡くさざる者は迎うる勿かれ。敵の居曲、衆少を視て之に應ず。此れ守城の大體なり。其の此の中に在らざる者は、皆な心術と人事と之を參う。
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『春秋左氏伝』桓公十三年 莫敖屈瑕の敗死十三年春、楚の屈瑕羅を伐つ。鬬伯比之を送る。還りて、其の禦に謂ひて曰く、「莫敖必ず敗れん。趾を舉ぐること高し、心固からず」と。遂に楚子に見えて曰く、「必ず師を濟せ」と。楚子焉を辭す。入りて夫人鄧曼に告ぐ。鄧曼曰く、「大夫は其れ眾の謂に非ず。其れ君の小民を撫するに信を以てし、諸司を訓ふるに德を以てし、而して莫敖を威すに刑を以てするを謂ふなり。莫敖は蒲騷の役に狃れ、將に自ら用ゐんとす。必ず羅を小とせん。君若し鎮撫せずんば、其れ備へを設けざらんか。夫れ固より君の眾を訓へて好く之を鎮撫し、諸司を召して之に勸むるに令德を以てし、莫敖を見て諸に天の假易せざるを告げよと謂ふなり。然らずんば、夫れ豈に楚の師の盡く行くを知らざらんや」と。楚子賴人をして之を追はしむ。及ばず。莫敖師に徇へしめて曰く、「諫むる者は刑有り」と。鄢に及び、次を亂して以て濟る。遂に次無く、且つ備へを設けず。羅に及ぶ。羅と盧戎と兩つながら之に軍す。大いに之を敗る。莫敖荒谷に縊れ、群帥冶父に囚へられて以て刑を聽く。楚子曰く、「孤の罪なり」と。皆之を免す。宋多く賂を鄭に責む。鄭命に堪へず。故に紀・魯を以て齊及び宋・衛・燕と戰ふ。戰ふ所を書せざるは、後るればなり。鄭人來りて好を修めんことを請ふ。
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『墨子』公孟子墨子、公孟子に謂いて曰く、「喪禮は、君と父母と妻と後子と死すれば、三年の喪服、伯父・叔父・兄弟は期、族人は五月、姑・姊・甥は皆な數月の喪有り。或いは喪せざるの間を以て、詩三百を誦し、詩三百を歌い、詩三百を舞う。若し子の言を用いば、則ち君子は何れの日を以て聴治せん。庶人は何れの日を以て事に従わん」と。公孟子曰く、「國亂るれば則ち之を治め、治まれば則ち禮樂を為す。國治まれば則ち事に従い、國富めば則ち禮樂を為す」と。子墨子曰く、「國の治まるは、之を治むればなり。治むること廢すれば、則ち國の治まるも亦た廢す。國の富むや、事に従えばなり。事に従うこと廢すれば、則ち國の富むも亦た廢す。故に國を治むと雖も、之を勸めて饜くこと無く、然る後に可なり。今、子曰く、『國治まれば則ち禮樂を為し、亂るれば則ち之を治む』と。是れ譬うれば猶お噎して井を穿ち、死して醫を求むるがごときなり。古者、三代の暴王、桀・紂・幽・厲は、薾に聲樂を為して、其の民を顧みず。是を以て身は刑僇と為り、國は戾虚と為る者は、皆な此の道に従えばなり」と。
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孫子・虚実篇故に前に備うれば則ち後寡なく、後に備うれば則ち前寡なし。左に備うれば則ち右寡なく、右に備うれば則ち左寡なし。備えざる所無ければ、則ち寡なからざる所無し。寡なき者は人に備うる者なり、衆き者は人をして己に備えしむる者なり。
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葉隠・聞書第一覺りの士というのは、事に逢って仕(し)たるように、前方に、それぞれの仕様(しよう)を吟味し置いて、その時に出合い、仕果(しはた)す者である。不覺の士というのは、その時に至って前方に穿鑿せぬのは、不覺の士と申す。
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尚書・說命中惟れ事を事とするに、乃ち其れ備え有り、備え有れば患い無し。
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