講孟余話 / 滕文公上 第五章
天之生物也、使之一本而夷子二本故也、一本二本ト云コト、誠ニ切要ノ事ナリ、一本ハ天地ノ常理皇国ノ大法ニシテ、漢土聖人ノ至教ナリ、事々物々ニ就テ熟考スヘシ、今條目ヲ左ニ列ス、一ニハ神器ト正統ト、善ク見サレハ二本ニナルナリ、此事先輩栗山潛鋒三宅觀瀾ノ論アリ余亦一說アリ別ニ著ス、此說大尾ニ附ス、
新字:天之生物也、使之一本而夷子二本故也、一本二本ト云コト、誠ニ切要ノ事ナリ、一本ハ天地ノ常理皇国ノ大法ニシテ、漢土聖人ノ至教ナリ、事々物々ニ就テ熟考スヘシ、今条目ヲ左ニ列ス、一ニハ神器ト正統ト、善ク見サレハ二本ニナルナリ、此事先輩栗山潜鋒三宅観瀾ノ論アリ余亦一説アリ別ニ著ス、此説大尾ニ附ス、
書き下し
「天の物を生ずるや、之れをして本を一にせしむ。而るに夷子は本を二にするが故なり」。一本・二本と云ふこと、誠に切要の事なり。一本は天地の常理、皇国の大法にして、漢土聖人の至教なり。事々物々に就きて熟考すべし。今条目を左に列す。一には神器と正統と、善く見ざれば二本になるなり。此の事、先輩栗山潜鋒・三宅観瀾の論あり、余も亦一説あり、別に著す。此の説大尾に附す。
現代語訳
孟子は「天が万物を生むとき、その根本を一つにしている。ところが夷子(墨家の夷之)は根本を二つにしてしまうから誤るのだ」と言う。根本が一つか二つかという問題は、まことに切実で大切なことである。根本を一つにすることは天地の常の道理であり、わが国の大法であって、中国の聖人の最高の教えでもある。物事の一つ一つについてよく考えるべきである。いまその項目を次に並べる。第一は、三種の神器と皇統の正しさとである。よく見ないと二つの根本になってしまう。このことについては先輩の栗山潜鋒・三宅観瀾の論があり、私にも一つの説があって別に書いた。その説は本書の巻末に付けておく。
解説
この章句が説くこと
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