講孟余話 / 滕文公上 第四章
孔子沒三年外、門人治任將帰師ノ爲ニハ心喪三年スルコト是古ノ制ナリ、孔門諸子ノ如キハ、三年ノ間孔子ノ家ニ畱リテ喪ヲ勤メタルト見ユレハ其厚キコト知ルヘシ、実ニ後世ノ及フ所ニ非ス、後世師道敗壞ス、唐ノ韓愈師說ヲ作リテ救フコト能ハズ、本邦太宰德夫モ亦師說アリ、而シテ近時ニ至リ師道益々廃ス、余因テ其源ヲ洞察シ、亦一說ヲ得タリ、大氏師ヲ取ルコト易ク師ヲ撰フコト審ナラズ、故ニ師道軽シ、故ニ師道ヲ興サントナラハ、妄ニ人ノ師トナルヘカラス、又妄ニ人ヲ師トスヘカラス、必ス眞ニ教ユヘキコトアリテ師トナリ、眞ニ学フヘキコトアリテ師トスヘシ、熊沢了介ノ中江藤樹ヲ師トスルカ如キハ、師弟共ニ各其道ヲ得ルト云ヘシ、且道ハ古聖賢大氏言尽セリ、行尽セリ、今ノ学者、多クハ其書ヲ觀テ口眞似ヲナスノミ、別ニ新見卓識古人ニ駕出スルアルニ非ス、然レハ師弟共ニ諸共聖賢ノ門人ト云者ナリ、同人ノ中ニテ妄ニ師ト云ヒ弟子ト云ハ、第一古聖賢へ對シテ憚多キコトナラズヤ、佐藤直方ノ師道ヲ以テ居ラサル、実ニ感スルニ餘アリ、此等ノ事モ世道名教ニ關係スルコト少カラズ、詳ニ諸君ト議セント欲ス
新字:孔子没三年外、門人治任将帰師ノ為ニハ心喪三年スルコト是古ノ制ナリ、孔門諸子ノ如キハ、三年ノ間孔子ノ家ニ畱リテ喪ヲ勤メタルト見ユレハ其厚キコト知ルヘシ、実ニ後世ノ及フ所ニ非ス、後世師道敗壊ス、唐ノ韓愈師説ヲ作リテ救フコト能ハズ、本邦太宰徳夫モ亦師説アリ、而シテ近時ニ至リ師道益々廃ス、余因テ其源ヲ洞察シ、亦一説ヲ得タリ、大氏師ヲ取ルコト易ク師ヲ撰フコト審ナラズ、故ニ師道軽シ、故ニ師道ヲ興サントナラハ、妄ニ人ノ師トナルヘカラス、又妄ニ人ヲ師トスヘカラス、必ス真ニ教ユヘキコトアリテ師トナリ、真ニ学フヘキコトアリテ師トスヘシ、熊沢了介ノ中江藤樹ヲ師トスルカ如キハ、師弟共ニ各其道ヲ得ルト云ヘシ、且道ハ古聖賢大氏言尽セリ、行尽セリ、今ノ学者、多クハ其書ヲ観テ口真似ヲナスノミ、別ニ新見卓識古人ニ駕出スルアルニ非ス、然レハ師弟共ニ諸共聖賢ノ門人ト云者ナリ、同人ノ中ニテ妄ニ師ト云ヒ弟子ト云ハ、第一古聖賢へ対シテ憚多キコトナラズヤ、佐藤直方ノ師道ヲ以テ居ラサル、実ニ感スルニ余アリ、此等ノ事モ世道名教ニ関係スルコト少カラズ、詳ニ諸君ト議セント欲ス
書き下し
「孔子没す、三年の外、門人任を治めて将に帰らんとす」。師の為には心喪三年することは是れ古の制なり。孔門諸子の如きは、三年の間孔子の家に留まりて喪を勤めたると見ゆれば、其の厚きこと知るべし、実に後世の及ぶ所に非ず。後世師道敗壊す、唐の韓愈師説を作りて救ふこと能はず、本邦太宰徳夫も亦師説あり。而して近時に至り師道益々廃す。余因りて其の源を洞察し、亦一説を得たり。大抵師を取ること易く、師を撰ぶこと審かならず、故に師道軽し。故に師道を興さんとならば、妄りに人の師となるべからず、又妄りに人を師とすべからず。必ず真に教ふべきことありて師となり、真に学ぶべきことありて師とすべし。熊沢了介の中江藤樹を師とするが如きは、師弟共に各々其の道を得ると云ふべし。且つ道は古聖賢大抵言ひ尽せり、行ひ尽せり。今の学者、多くは其の書を観て口真似をなすのみ、別に新見卓識の古人に駕出するあるに非ず。然れば師弟共に諸共聖賢の門人と云ふ者なり。同人の中にて妄りに師と云ひ弟子と云ふは、第一古聖賢へ対して憚り多きことならずや。佐藤直方の師道を以て居らざる、実に感ずるに余りあり。此等の事も世道名教に関係すること少なからず、詳かに諸君と議せんと欲す。
現代語訳
「孔子が亡くなって三年が過ぎると、門人たちは荷物をまとめて帰ろうとした」。師のために心の中で三年の喪に服することは、昔の制度である。孔子の弟子たちは、三年のあいだ孔子の家にとどまって喪に服したように見えるので、その情の厚さが知れる。まことに後世の及ぶところではない。後世、師の道はすっかり崩れた。唐の韓愈は「師説」を書いたが、それを救うことはできなかった。わが国の太宰春台(徳夫)にも師についての説がある。そして近ごろになると、師の道はますますすたれた。私はそこでその根源を見通して、一つの考えを得た。たいてい、師に就くことはたやすく、師を選ぶことは慎重でない。だから師の道が軽くなるのである。それゆえ師の道を興そうとするなら、みだりに人の師となってはならず、またみだりに人を師としてはならない。必ず本当に教えるべきことがあって師となり、本当に学ぶべきことがあって師とすべきである。熊沢蕃山(了介)が中江藤樹を師としたようなのは、師も弟子もそれぞれその道を得たと言うべきである。そもそも道は、昔の聖人賢人がおおよそ言い尽くし、行い尽くしている。今の学者の多くは、その書物を見て口まねをしているだけで、とりたてて古人をしのぐ新しい見識があるわけではない。そうであれば、師も弟子もともに聖賢の門人というべきものである。同じ立場の者どうしで、みだりに師だ弟子だと言うのは、何よりもまず古の聖賢に対して恐れ多いことではないか。佐藤直方が師の立場に身を置かなかったことには、まことに深く感じ入るものがある。こうしたことも世の道や名分の教えにかかわるところが少なくない。詳しく諸君と議論したいと思う。
解説
この章句が説くこと
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『春秋左氏伝』昭公十七年 天子官を失えば学は四夷に在り秋、郯子來朝す。公之と宴す。昭子焉に問ひて曰く、「少皞氏鳥もて官に名づくるは、何の故ぞや」と。郯子曰く、「吾が祖なり。我之を知る。昔者黃帝氏は雲を以て紀す。故に雲師と為して雲もて名づく。炎帝氏は火を以て紀す。故に火師と為して火もて名づく。共工氏は水を以て紀す。故に水師と為して水もて名づく。大皞氏は龍を以て紀す。故に龍師と為して龍もて名づく。我が高祖少皞摯の立つや、鳳鳥適(たまたま)至る。故に鳥に紀し、鳥師と為して鳥もて名づく。鳳鳥氏は歷正なり。玄鳥氏は分を司る者なり。伯趙氏は至を司る者なり。青鳥氏は啟を司る者なり。丹鳥氏は閉を司る者なり。祝鳩氏は司徒なり。鴡鳩氏は司馬なり。鳲鳩氏は司空なり。爽鳩氏は司寇なり。鶻鳩氏は司事なり。五鳩は、民を鳩(あつ)むる者なり。五雉は五工正と為し、器用を利し、度量を正し、民を夷(たひら)ぐる者なり。九扈は九農正と為し、民を扈(とど)めて淫する無からしむる者なり。顓頊より以來、遠きを紀する能はず、乃ち近きに紀し、民の師と為して命ずるに民事を以てす。則ち能はざるが故なり」と。仲尼之を聞き、郯子に見えて之を學ぶ。既にして人に告げて曰く、「吾之を聞く、『天子官を失へば、學は四夷に在り』と。猶ほ信なり」と。晉侯屠蒯をして周に如かしめ、雒と三塗とに事有らんことを請ふ。萇弘劉子に謂ひて曰く、「客の容猛し。祭に非ざるなり。其れ戎を伐たんか。陸渾氏甚だ楚に睦まじ。必ず是の故なり。君其れ之に備へよ」と。乃ち戎備を警む。
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論語・公冶長篇子貢問いて曰く、「孔文子、何を以て之を文と謂うや。」子曰く、「敏にして学を好み、下問を恥じず。是を以て之を文と謂うなり。」
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『十善法語』巻第二・不偸盜戒総シテ小根劣機ノ者ハ先入ル言主トナル。自ラ知トコロヲ是トス。儒者ヨリ老子仏者ノ道ヲ蔑ニスル。道者ヨリ仏法儒道ヲ謗ル。ミナ愚ノ至リシヤ。凡ソ一事一芸デモ万代ニ推通シテ用ルコトハ。各各其徳有ルモノソ。妄ニ廃スルコトハワロキシヤ。マシテ道ト称シテ尊重スルコトハ。其由来有ルヘシ。其道ニ入テ学ハネハ知レヌコトシヤ。道ニ聴テ途ニ説ハ徳ノ棄ナリシヤ。知スシテ妄ニ評判スルハ。皆碌碌タル小人ノ好ムトコロシヤ。
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史記 絳侯周勃世家独り大胾を置き、切肉無く、又櫡を置かず。条侯心平らかならず、顧みて尚席に謂ひて櫡を取らしむ。景帝視て笑ひて曰く、「此れ君の所を足らざるか」と。条侯冠を免ぎて謝す。上起つ、条侯因りて趨りて出づ。景帝目を以て之を送りて、曰く、「此の怏怏たる者は少主の臣に非ざるなり」と。居ること何も無くして、条侯の子父の為に工官尚方の甲楯五百被の以て葬るべき者を買ふ。庸を取りて之を苦しめ、銭を予へず。庸其の県官の器を盗み買ふを知り、怒りて上変して子を告ぐ、事連なりて条侯を汚す。書既に上に聞こゆ、上吏に下す。吏条侯を簿責するも、条侯対へず。景帝之を罵りて曰く、「吾用ひざるなり」と。召して廷尉に詣らしむ。廷尉責めて曰く、「君侯反せんと欲するか」と。亜夫曰く、「臣の買ふ所の器は、乃ち葬器なり、何ぞ反と謂ふや」と。吏曰く、「君侯縦ひ地上に反せずとも、即ち地下に反せんと欲するのみ」と。吏之を侵すこと益々急なり。初め、吏条侯を捕ふるに、条侯自殺せんと欲す、夫人之を止む、故を以て死するを得ず、遂に廷尉に入る。因りて食はざること五日、血を嘔きて死す。国除かる。絶ゆること一歳、景帝乃ち更めて絳侯勃の他の子堅を封じて平曲侯と為し、絳侯の後を続がしむ。十九年にして卒し、謚して共侯と為す。子建徳代はりて侯たり、十三年にして、太子太傅と為る。酎金善からざるに坐し、元鼎五年、罪有りて、国除かる。条侯果たして餓死す。死後、景帝乃ち王信を封じて蓋侯と為す。太史公曰く、絳侯周勃始め布衣たりし時、鄙樸の人なり、才能凡庸に過ぎず。高祖に従ひて天下を定むるに及び、将相の位に在り、諸呂乱を作さんと欲するに、勃国家の難を匡し、之を正に復す。伊尹・周公と雖も、何を以て加へんや。亜夫の兵を用ふる、威重を持し、堅刃を執る、穣苴も曷ぞ加ふること有らん。己に足りて学ばず、節を守りて遜らず、終に以て窮困す。悲しいかな。
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説苑・善說子貢太宰嚭に見ゆ。太宰嚭問いて曰く、「孔子は何如。」對えて曰く、「臣以て之を知るに足らず。」太宰曰く、「子知らずして、何を以て之に事うるか。」對えて曰く、「惟だ知らず、故に之に事う。夫子は其れ猶お大山林のごとし、百姓各々其の材を足す。」太宰嚭曰く、「子夫子を增すか。」對えて曰く、「夫子は增すべからざるなり。夫れ賜は其れ猶お一累壤のごとし。一累壤を以て大山を增すも、其の高きを益さず、且つ知らずと爲す。」太宰嚭曰く、「然らば則ち子酌む所有るか。」對えて曰く、「天下に大樽有りて子獨り酌まざるなり、誰の罪なるかを識らず。」
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