講孟余話 / 公孫丑下 第十三章
彼一時、此一時也、君子ノ心両般アリ、一般ハ己ヲ處スルナリ、其己ヲ處スルハ貧賤ノ極リ、艱難ノ甚シキト云トモ、雍々是ニ處リ、一モ天ヲ怨ミ人ヲ尤ムル所ナシ、一般ハ世ヲ憂ルナリ、其世ヲ憂ルハ天下ヲ視ルコト吾家ノ如ク、万民ヲ視ルコト吾子ノ如ク、世乱レ民苦ムヲ視テハ、食テ味ヲ甘セス、寢テ席ヲ安ンセサルニ至ル、彼一時、此一時也ト云ハ、此両般ナリ、然レトモ両般実ハ一般ナリ、何トナレハ、己ニ在テ貧賤艱難心ニ関ルコトナシ、故ニ天下万民ヲ視ルコト、吾家吾子ノ如キニ至ル、天下万民ヲ視ルコト吾家吾子ノ如シ、故ニ貧賤艱難心ニ關ルコトナキニ至ル、若夫情ヲ好、爵ニ牽サレ、涎ヲ美利ニ流スノ徒、安ソ天下万民ヲ顧ル者アランヤ、故ニ云ク両般実ハ一般ナリ
新字:彼一時、此一時也、君子ノ心両般アリ、一般ハ己ヲ処スルナリ、其己ヲ処スルハ貧賤ノ極リ、艱難ノ甚シキト云トモ、雍々是ニ処リ、一モ天ヲ怨ミ人ヲ尤ムル所ナシ、一般ハ世ヲ憂ルナリ、其世ヲ憂ルハ天下ヲ視ルコト吾家ノ如ク、万民ヲ視ルコト吾子ノ如ク、世乱レ民苦ムヲ視テハ、食テ味ヲ甘セス、寝テ席ヲ安ンセサルニ至ル、彼一時、此一時也ト云ハ、此両般ナリ、然レトモ両般実ハ一般ナリ、何トナレハ、己ニ在テ貧賤艱難心ニ関ルコトナシ、故ニ天下万民ヲ視ルコト、吾家吾子ノ如キニ至ル、天下万民ヲ視ルコト吾家吾子ノ如シ、故ニ貧賤艱難心ニ関ルコトナキニ至ル、若夫情ヲ好、爵ニ牽サレ、涎ヲ美利ニ流スノ徒、安ソ天下万民ヲ顧ル者アランヤ、故ニ云ク両般実ハ一般ナリ
書き下し
「彼も一時、此れも一時なり」。君子の心両般あり。一般は己れを処するなり。其の己れを処するは、貧賤の極まり、艱難の甚しきと云へども、雍々として是れに処り、一も天を怨み人を尤むる所なし。一般は世を憂ふるなり。其の世を憂ふるは、天下を視ること吾が家の如く、万民を視ること吾が子の如く、世乱れ民苦しむを視ては、食うて味を甘んぜず、寝て席を安んぜざるに至る。「彼も一時、此れも一時なり」と云ふは、此の両般なり。然れども両般実は一般なり。何となれば、己れに在りて貧賤艱難心に関ることなし、故に天下万民を視ること、吾が家吾が子の如きに至る。天下万民を視ること吾が家吾が子の如し、故に貧賤艱難心に関ることなきに至る。若し夫れ情を好み、爵に牽され、涎を美利に流すの徒、安んぞ天下万民を顧みる者あらんや。故に云ふ、両般実は一般なり。
現代語訳
「あのときはあのとき、今は今である」。君子の心には二つの面がある。一つは自分の身の処し方である。自分の身を処するときは、貧しく卑しい境遇の極みでも、困難のどん底でも、穏やかにそこに身を置き、天を怨んだり人を咎めたりすることが一つもない。もう一つは世を憂えることである。世を憂えるときは、天下を自分の家のように、万民を自分の子のように見て、世が乱れ民が苦しむのを見ては、食べても味が分からず、寝ても落ち着かないほどになる。「あのときはあのとき、今は今」というのは、この二つの面のことである。しかし二つの面は、実は一つである。なぜなら、自分については貧しさや苦しさが心にかからない。だから天下万民を自分の家、自分の子のように見ることができる。天下万民を自分の家、自分の子のように見る。だから貧しさや苦しさが心にかからなくなる。もしも情におぼれ、爵位に引かれ、うまい利益によだれを垂らすような連中であれば、どうして天下万民を顧みる者があろうか。だから言うのである。二つの面は実は一つである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
論語・顔淵篇司馬牛、君子を問う。子曰く、「君子は憂えず懼れず。」曰く、「憂えず懼れざれば、斯れ之を君子と謂うか。」子曰く、「内に省みて疚しからずんば、夫れ何をか憂え何をか懼れん。」
-
論語・憲問篇子曰く、君子にして不仁なる者有るかな。未だ小人にして仁なる者有らざるなり。
-
論語・学而篇子曰く、「君子は食らうに飽くことを求めず、居るに安きを求めず、事に敏にして言に慎み、有道に就いて正す。学を好むと謂う可きのみ。」
-
論語・為政篇子曰く、「君子は器ならず。」
-
論語・学而篇子曰く、「君子重からざれば則ち威あらず、学べば則ち固ならず。忠信を主とし、己に如かざる者を友とすること無かれ、過てば則ち改むるに憚ること勿かれ。」
-
荀子・哀公篇哀公曰く、善し。敢えて問う、何如なれば斯ち之を君子と謂うべきか、と。孔子対えて曰く、所謂る君子なる者は、言は忠信にして心に徳とせず、仁義身に在りて色に伐(ほこ)らず、思慮明通にして辞は争わず。故に猶然として将に及ぶべきが如き者は、君子なり、と。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る