講孟余話 / 公孫丑下 第十四章
孟子初テ王ニ見テヨリ、已ニ去志アリ、故ニ祿ヲ受ケズ、是ヲ以テ古人苟モ祿ヲ受サルコトヲ知ルヘシ、韓信言アリ、乘人之車者、載人之患、衣人之衣者、懷人之憂、食人之食者、死人之事、故ニ仕テ祿ヲ受レハ、此身ヲ擧テ君ニ献ス、君ノ爲ニ用ニ供スルコトナカルヘケンヤ、是古人祿ヲ受ルノ苟モセサル所以ナリ、今世清平ノ深澤ト、祖先ノ餘恩トニ因リ、許多ノ俸祿ヲ賜ヒ、其初ヲ知ラズ、其受ルノ苟モスベカラサルヲ知ル者少シ、此等ノ章ニ於テ、宜シク感悟スル所アルベシ、右下篇凢ソ十四章、朱子曰、自第二章以下、記孟子出處行実爲詳、今案スルニ第二章孟子自ラ処スル所ト時君ニ望ム所見ルヘシ、第三章自ラ処スルナリ、四章時君ニ望ムナリ、五章六章七章並ニ自ラ居ルナリ、八章九章ノ間、梁惠王下篇ノ十章十一章ヲ加ヘ共ニ四章敍事相承ケ、伐燕ノ始末甚タ備ル、亦時君ニ望ムナリ、以下五章又敍事相承ケ去斉ノ始末甚タ備ル、亦自ラ処ナリ、就中第十三章尽心下篇ノ末章ト大意同フシテ文少ク省クノミ、是孟子深慨ノ在ル所ニシテ、此篇記スル所ノ出處行実ヲ結フナリ
新字:孟子初テ王ニ見テヨリ、已ニ去志アリ、故ニ禄ヲ受ケズ、是ヲ以テ古人苟モ禄ヲ受サルコトヲ知ルヘシ、韓信言アリ、乗人之車者、載人之患、衣人之衣者、懐人之憂、食人之食者、死人之事、故ニ仕テ禄ヲ受レハ、此身ヲ挙テ君ニ献ス、君ノ為ニ用ニ供スルコトナカルヘケンヤ、是古人禄ヲ受ルノ苟モセサル所以ナリ、今世清平ノ深沢ト、祖先ノ余恩トニ因リ、許多ノ俸禄ヲ賜ヒ、其初ヲ知ラズ、其受ルノ苟モスベカラサルヲ知ル者少シ、此等ノ章ニ於テ、宜シク感悟スル所アルベシ、右下篇凢ソ十四章、朱子曰、自第二章以下、記孟子出処行実為詳、今案スルニ第二章孟子自ラ処スル所ト時君ニ望ム所見ルヘシ、第三章自ラ処スルナリ、四章時君ニ望ムナリ、五章六章七章並ニ自ラ居ルナリ、八章九章ノ間、梁恵王下篇ノ十章十一章ヲ加ヘ共ニ四章叙事相承ケ、伐燕ノ始末甚タ備ル、亦時君ニ望ムナリ、以下五章又叙事相承ケ去斉ノ始末甚タ備ル、亦自ラ処ナリ、就中第十三章尽心下篇ノ末章ト大意同フシテ文少ク省クノミ、是孟子深慨ノ在ル所ニシテ、此篇記スル所ノ出処行実ヲ結フナリ
書き下し
孟子初めて王に見えてより、已に去る志あり、故に禄を受けず。是れを以て古人苟も禄を受けざることを知るべし。韓信言へることあり、「人の車に乗る者は人の患を載せ、人の衣を衣る者は人の憂を懐き、人の食を食む者は人の事に死す」と。故に仕へて禄を受くれば、此の身を挙げて君に献ず、君の為に用に供することなかるべけんや。是れ古人禄を受くるの苟もせざる所以なり。今世清平の深沢と、祖先の余恩とに因り、許多の俸禄を賜ひ、其の初めを知らず、其の受くるの苟もすべからざるを知る者少なし。此等の章に於て、宜しく感悟する所あるべし。右下篇凡そ十四章、朱子曰く、「第二章より以下、孟子の出処行実を記すこと詳かなりと為す」。今案ずるに、第二章孟子自ら処する所と時君に望む所見るべし。第三章自ら処するなり。四章時君に望むなり。五章・六章・七章並びに自ら居るなり。八章・九章の間、梁恵王下篇の十章・十一章を加へ、共に四章叙事相承け、燕を伐つの始末甚だ備はる、亦時君に望むなり。以下五章又叙事相承け、斉を去るの始末甚だ備はる、亦自ら処するなり。就中第十三章、尽心下篇の末章と大意同じうして文少しく省くのみ。是れ孟子深慨の在る所にして、此の篇記す所の出処行実を結ぶなり。
現代語訳
孟子は初めて斉王に会ったときから、すでに去るつもりがあった。だから禄を受けなかった。このことから、昔の人はかりそめにも禄を受けなかったことが分かる。韓信の言葉に「人の車に乗る者は人の災いを背負い、人の衣を着る者は人の憂いを抱き、人の食を食べる者は人の仕事のために死ぬ」とある。だから仕えて禄を受ければ、この身をすっかり主君に献げるのであって、主君のために役立たずにいてよいはずがない。これが、昔の人が禄を受けることを軽々しくしなかった理由である。いまの世は、太平の厚い恩沢と祖先の残した恩とによって、多くの俸禄をいただきながら、その始まりを知らず、受けることを軽々しくしてはならないと知る者は少ない。こうした章を読んで、心に悟るところがあるべきである。以上の下篇はおよそ十四章である。朱子は「第二章以下は、孟子の進退と実際の行いを詳しく記している」と言う。いま考えてみると、第二章には孟子が自らをどう処したかと、時の君主に何を望んだかが見える。第三章は自らの処し方である。第四章は時の君主に望むことである。第五・六・七章はいずれも自らの身の置き方である。第八章と第九章のあいだに、梁恵王下篇の第十章・第十一章を加えると、四章が事柄の叙述として続き、燕を討った始末が詳しくそろう。これも時の君主に望むことである。それ以後の五章も叙述として続き、斉を去った始末が詳しくそろう。これも自らの処し方である。とりわけ第十三章は、尽心下篇の末章と大意が同じで、文が少し簡略なだけである。これは孟子の深い嘆きのあるところで、この篇に記された進退と行いを締めくくっている。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 張耳陳余列伝貫高独り怒り罵りて曰く、「誰か公をして之を為さしめし。今王実に謀無くして、并せて王を捕ふ。公等皆死せば、誰か王の反せざるを白さん」と。乃ち轞車に膠致せられ、王と長安に詣る。張敖の罪を治む。上乃ち趙の群臣賓客に詔すらく、敢て王に従ふ有らば皆族せんと。貫高と客孟舒等十余人と、皆自ら髡鉗し、王の家奴と為りて従ひ来たる。貫高至り、獄に対へて曰く、「独り吾が属之を為す。王実に知らず」と。吏治めて榜笞すること数千、刺剟して、身に撃つべき者無きも、終に復た言はず。呂后数々言ふ、張王は魯元公主の故を以て、宜しく此れ有るべからずと。上怒りて曰く、「張敖をして天下に拠らしめば、豈に而が女を少しとせんや」と。聴かず。廷尉貫高の事の辞を以て聞す。上曰く、「壮士なり。誰か知る者ぞ。私を以て之に問へ」と。中大夫泄公曰く、「臣の邑子にして、素より之を知る。此れ固より趙国の名義を立てて侵されず、然諾を為す者なり」と。上泄公をして節を持して之に箯輿の前に問はしむ。仰ぎ視て曰く、「泄公か」と。泄公労苦すること生平の驩の如く、与に語り、張王果して計謀有りや不やを問ふ。高曰く、「人情寧ぞ各々其の父母妻子を愛せざらんや。今吾が三族皆以て死に論ぜらる。豈に王を以て吾が親に易へんや。顧ふに王実に反せず、独り吾等之を為せり」と。具に本指の為す所以と王の知らざる状とを道ふ。是に於て泄公入り、具に以て報ず。上乃ち趙王を赦す。上貫高の人と為り能く然諾を立つるを賢とし、泄公をして具に之に告げしめて曰く、「張王已に出でたり」と。因りて貫高を赦す。貫高喜びて曰く、「吾が王審らかに出でたるか」と。泄公曰く、「然り」と。泄公曰く、「上足下を多とす。故に足下を赦す」と。貫高曰く、「死せずして一身に余無き所以の者は、張王の反せざるを白さんとすればなり。今王已に出づ。吾が責已に塞がる。死すとも恨みず。且つ人臣として篡殺の名有り、何の面目ありて復た上に事へんや。縦ひ上我を殺さずとも、我心に愧ぢざらんや」と。乃ち仰ぎて骯を絶ち、
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