講孟余話 / 公孫丑上 第二章
以直養ト云同シ工夫ニテ、平日スル所悉ク直道ニ外ルヽコトナクシテ、是ヲ以テ此氣ヲ養育スルコト也、無暴其氣ト云ハ、即チ無害ト云ト同シ、害スルト云、暴フト云ニ二樣アリ、一ハ私欲ヲ肆ニシ、直道ヲ以テ志ヲ持スルコトヲ忘ルヽ時ハ、自ラ省ミテ愧ル所アリ、大ニ氣ヲ暴ヒ害スル也、是即チ下節ノ所謂不耘苗者也、二ハ浩然ノ氣ノ至大至剛ハ、爲ス所道義ニ合フヨリシテ自ラ生スル者ナリ、然ルニ道義ニ合フト合ヌヲモ考ヘズ、向見ズニ大ト剛トヲナサントスル時ハ、一時ハ我慢血氣ニテ狂暴粗豪ヲ以テ剛モ大モナスベケレトモ、遂ニハ愈々自ラ省ミテ愧ル所アリ、武田信玄ノ終身論語ヲ読ムコト能ハサル如キ、是レ最モ氣ヲ暴ヒ害スルノ大ナル者ナリ、是下節ノ所謂□苗者也、塞乎天地之間ト云ハ、其效驗ヲ云ナリ、浩然ノ氣ハ本是天間ニ充塞スル所ニシテ、人ノ得テ氣トスル所也、故ニ人能ク私心ヲ除ク時ハ至大ニシテ天地ト同一ニナルナリ、今吾レ一言一行細ヨリシテ、本諸身、徵諸庶民、考諸三王而不繆、建諸天地而不悖、質諸鬼神而無疑、百世以俟聖人而不惑、動而世爲天下道、行而世爲天下法、言而世爲天下則、ト云如クナレハ、天地古今ニ充塞スト云ヘシ、浩然ノ氣ハ古來聖賢相傳テ、孟子ニ至リ発明スル所學者ニ於テ最切実ナルコト故ニ、特ニ是ヲ詳ニス
新字:以直養ト云同シ工夫ニテ、平日スル所悉ク直道ニ外ルヽコトナクシテ、是ヲ以テ此気ヲ養育スルコト也、無暴其気ト云ハ、即チ無害ト云ト同シ、害スルト云、暴フト云ニ二様アリ、一ハ私欲ヲ肆ニシ、直道ヲ以テ志ヲ持スルコトヲ忘ルヽ時ハ、自ラ省ミテ愧ル所アリ、大ニ気ヲ暴ヒ害スル也、是即チ下節ノ所謂不耘苗者也、二ハ浩然ノ気ノ至大至剛ハ、為ス所道義ニ合フヨリシテ自ラ生スル者ナリ、然ルニ道義ニ合フト合ヌヲモ考ヘズ、向見ズニ大ト剛トヲナサントスル時ハ、一時ハ我慢血気ニテ狂暴粗豪ヲ以テ剛モ大モナスベケレトモ、遂ニハ愈々自ラ省ミテ愧ル所アリ、武田信玄ノ終身論語ヲ読ムコト能ハサル如キ、是レ最モ気ヲ暴ヒ害スルノ大ナル者ナリ、是下節ノ所謂□苗者也、塞乎天地之間ト云ハ、其効験ヲ云ナリ、浩然ノ気ハ本是天間ニ充塞スル所ニシテ、人ノ得テ気トスル所也、故ニ人能ク私心ヲ除ク時ハ至大ニシテ天地ト同一ニナルナリ、今吾レ一言一行細ヨリシテ、本諸身、徴諸庶民、考諸三王而不繆、建諸天地而不悖、質諸鬼神而無疑、百世以俟聖人而不惑、動而世為天下道、行而世為天下法、言而世為天下則、ト云如クナレハ、天地古今ニ充塞スト云ヘシ、浩然ノ気ハ古来聖賢相伝テ、孟子ニ至リ発明スル所学者ニ於テ最切実ナルコト故ニ、特ニ是ヲ詳ニス
書き下し
「直を以て養ふ」と云ふ同じ工夫にて、平日する所悉く直道に外るることなくして、是れを以て此の気を養育することなり。「其の気を暴ふことなかれ」と云ふは、即ち「害ふことなし」と云ふと同じ。害すると云ひ、暴ふと云ふに二様あり。一は私欲を肆にし、直道を以て志を持することを忘るる時は、自ら省みて愧づる所あり、大いに気を暴ひ害するなり。是れ即ち下節の所謂「苗を耘らざる者」なり。二は浩然の気の至大至剛は、為す所道義に合ふよりして自ら生ずる者なり。然るに道義に合ふと合はぬとをも考へず、向う見ずに大と剛とをなさんとする時は、一時は我慢血気にて狂暴粗豪を以て剛も大もなすべけれども、遂には愈々自ら省みて愧づる所あり。武田信玄の終身論語を読むこと能はざる如き、是れ最も気を暴ひ害するの大なる者なり。是れ下節の所謂「苗を□(揠)く者」なり。「天地の間に塞がる」と云ふは、其の効験を云ふなり。浩然の気は本是れ天地の間に充塞する所にして、人の得て気とする所なり。故に人能く私心を除く時は至大にして天地と同一になるなり。今吾れ一言一行細よりして、「諸を身に本づけ、諸を庶民に徴し、諸を三王に考へて繆らず、諸を天地に建てて悖らず、諸を鬼神に質して疑ひなく、百世以て聖人を俟ちて惑はず、動いて世々天下の道となり、行うて世々天下の法となり、言うて世々天下の則となる」と云ふ如くなれば、天地古今に充塞すと云ふべし。浩然の気は古来聖賢相伝へて、孟子に至り発明する所、学者に於て最も切実なること故に、特に是れを詳かにす。
現代語訳
「まっすぐに養う」というのも同じ工夫であって、ふだん行うことがすべてまっすぐな道から外れることなく、それによってこの気を養い育てることである。「その気を乱暴に扱うな」とは、「損なうことがない」と言うのと同じである。損なう、乱暴に扱うというのには二通りある。一つは、私欲をほしいままにし、まっすぐな道で志を持つことを忘れたときで、自ら省みて恥じるところがあり、大いに気を乱し損なうのである。これが後の節で言う「苗の草取りをしない者」である。二つ目は、浩然の気の至大至剛は、行うことが道義にかなうところからおのずと生じるものである。それなのに、道義にかなうかどうかも考えず、向こう見ずに大きく剛くあろうとすると、一時は我慢と血気によって乱暴で粗っぽく剛さも大きさも装えるだろうが、ついにはますます自ら省みて恥じるところが出てくる。武田信玄が生涯『論語』を読み通せなかったようなことは、もっとも大きく気を乱し損なうものである。これが後の節で言う「苗を引っ張って伸ばそうとする者」である。「天地のあいだに満ちわたる」とは、その効き目を言ったものである。浩然の気はもともと天地のあいだに満ちているもので、人がそれを得て自分の気としているのである。だから人がよく私心を除けば、この上なく大きくなって天地と一つになる。今もし私が、一言一行の細かなところから、『中庸』に「わが身に根ざし、民に照らして確かめ、古の三王に照らして誤りがなく、天地に立てて背かず、鬼神に問うて疑いがなく、百世の後の聖人を待っても惑わない。動けば代々天下の道となり、行えば代々天下の法となり、言えば代々天下の則となる」と言うようにできたなら、天地古今に満ちわたると言ってよい。浩然の気は古来聖賢が伝えてきて、孟子に至って明らかにされたものであり、学ぶ者にとってもっとも切実なことであるから、とくに詳しく述べた。
解説
この章句が説くこと
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