講孟余話 / 公孫丑上 第二章
至大至剛ハ氣ノ形狀模樣ニシテ、以直養而無害ハ、卽持其志無暴其氣ノ義ニシテ、浩然ノ氣ヲ養ノ道ナリ、其志ヲ持ト云ハ、吾カ聖賢ヲ学ハントスルノ志ヲ持詰テ、片時モ緩カセナクスルコトナリ、学問ノ大禁忌ハ作輟ナリ、或ハ作シ或ハ輟ムルコトアリテハ、遂ニ成就スルコトナシ、故ニ片時モ此志ヲ緩カセナクスルヲ持其志ト云、余辛亥ノ歳初テ象山翁ヲ見ル、翁漢学蘭学各日ノ半ヲ以テ修学スヘキコトヲ数ヘ、因テ作輟スルコト是其大禁忌ナリト云ヘリ、是常言ト云ヘトモ、余深ク耳底ニ存シテ、今ニ至ルマテ象山ヲ憶フ每ニ、必ズ此言ヲ思フヲ以テ、偶然此如ニ発セシナリ、
新字:至大至剛ハ気ノ形状模様ニシテ、以直養而無害ハ、即持其志無暴其気ノ義ニシテ、浩然ノ気ヲ養ノ道ナリ、其志ヲ持ト云ハ、吾カ聖賢ヲ学ハントスルノ志ヲ持詰テ、片時モ緩カセナクスルコトナリ、学問ノ大禁忌ハ作輟ナリ、或ハ作シ或ハ輟ムルコトアリテハ、遂ニ成就スルコトナシ、故ニ片時モ此志ヲ緩カセナクスルヲ持其志ト云、余辛亥ノ歳初テ象山翁ヲ見ル、翁漢学蘭学各日ノ半ヲ以テ修学スヘキコトヲ数ヘ、因テ作輟スルコト是其大禁忌ナリト云ヘリ、是常言ト云ヘトモ、余深ク耳底ニ存シテ、今ニ至ルマテ象山ヲ憶フ毎ニ、必ズ此言ヲ思フヲ以テ、偶然此如ニ発セシナリ、
書き下し
至大至剛は気の形状模様にして、「直を以て養ひて害ふことなし」は、即ち「其の志を持して其の気を暴ふことなかれ」の義にして、浩然の気を養ふの道なり。其の志を持すと云ふは、吾が聖賢を学ばんとするの志を持ち詰めて、片時も緩かせなくすることなり。学問の大禁忌は作輟なり。或は作し或は輟むることありては、遂に成就することなし。故に片時も此の志を緩かせなくするを「其の志を持す」と云ふ。余辛亥の歳初めて象山翁を見る。翁、漢学・蘭学各々日の半を以て修学すべきことを教へ、因りて作輟すること是れ其の大禁忌なりと云へり。是れ常言と云へども、余深く耳底に存して、今に至るまで象山を憶ふ毎に、必ず此の言を思ふを以て、偶然此くの如くに発せしなり。
現代語訳
「至大至剛」は気のかたちとありさまであり、「まっすぐに養って損なうことがない」とは、すなわち「その志をしっかり持ち、その気を乱暴に扱うな」という意味であって、浩然の気を養う道である。「その志を持つ」とは、聖人賢人を学ぼうとする自分の志を持ち続け、片時もおろそかにしないことである。学問でもっとも忌むべきことは、始めたりやめたりすることである。やったりやめたりしていては、ついに成し遂げることはない。だから片時もこの志をゆるめないことを「その志を持つ」と言うのである。私は辛亥の年(嘉永四年)に初めて佐久間象山先生にお会いした。先生は、漢学と蘭学をそれぞれ一日の半分ずつ学ぶよう教え、そのうえで、始めたりやめたりすることがもっとも忌むべきことだと言われた。これはありふれた言葉ではあるが、私は深く耳の底にとどめ、今に至るまで象山先生を思うたびに必ずこの言葉を思い出すので、たまたまここでこのように口をついて出たのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『大和俗訓』巻之一・為学上一学問はまづ志を立つるを以て本とす。志とは心のゆく所なり。道を知り行ひて、君子に至らんと思ふ心常におこたりなく、念々やまざるを、志を立つると云ふ。志たたざれば学ぶこと成就せず。故に古人も、志ある者は其事つひになるといひ、又志たつは学の半なりといへり。たとへば弓いる者の、的に志し、道ゆく者の、宿に志すが如し。よろづの事、まづ本をつとむべし。志を立つるは学問の本なり。志を立つるには勇猛なるべし。柔弱にして怠るべからず。おこたれば験なくしてはかゆかず。道を求むるにせちなる志は、たとへば飢ゑて食を求め、渇きて湯水を求むるが如くなるべしわづかに悠々としておこたれば、志すたる。唯此道に心を一すぢにすべし。
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『講孟余話』梁惠王下 首章今や文教興隆し、正学世に明らかなり。士は孔孟の言に非ざれば口に称せず、五尺の童子も管晏を言ふことを恥づ。吾諸君と此の世に生まれ、正学に従事することを得、実に大幸と云ふべし。然れども志を立つること真ならざれば、名は正学なれども実は曲学にも劣るべし。事旧りたれども、子としては孝に死し、臣としては忠に死し、仰いでは皇国の大恩に報じ、俯しては一身の職分を尽くさんと、日夜に志を励まして学を勤めば、其の正学たるに負かずと云ふべし。孟子嘗て云く、五穀も熟せざれば荑稗に如かずと、思はざるべけんや。抑々志さへ真なれば曲学にても一概に非とすべからずとは雖も、世に志ありて曲学に陥る者あらば、吾固より手を把りて正学の途に進めんと欲するは固よりなり。是れを以て又孟子の楽を論ずる言外の旨を領すべし。
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うひ山ぶみ・注[ロ]かのしなじなある学びのすぢすぢ外の国の事に用ひんよりは、わがみづからの国の事に用ひまほしく思ふ也、その勝劣のさだなどは、姑くさしおきて、まづよその事にのみかゝづらひて、わが内の国の事をしらざらんは、くちをしきわざならざらんや、志を高く大きにたてて云々、すべて学問は、はじめよりその心ざしを、高く大きに立テて、その奥を究めつくさずはやまじと、かたく思ひまうくべし、此志よわくては、学問すゝみがたく、倦怠るもの也、主としてよるべきすぢは云々、道を学ぶを主とすべき子細は、今さらいふにも及ばぬことなれども、いさゝかいはば、まづ人として、人の道はいかなるものぞといふことを、しらで有べきにあらず、学問の志なきものは、論のかぎりにはあらず、かりそめにもその心ざしあらむ者は、同じくは道のために、力を用ふべきこと也、然るに道の事をば、なほざりにさしおきて、たゞ末の事にのみ、かゝづらひをらむは、学問の本意にあらず、さて道を学ぶにつきては、天地の間にわたりて、殊にすぐれたる、まことの道の伝はれる、御国に生れ来つるは、
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『学則』答屈景山書夫れ士の其の世に生まるる、此に非ざれば則ち出でて其の道を行ひ、功を策し名を立てて、以て其の父母を顕はす能はず。千秋の志無しと雖も、是れも亦た恕すべきのみ。二公の古文辞を倡ふるは、皆進士に第するの後に在り。而して二公の興るや、従游時師に過ぐ。時師の妒みを来たす所以なり。然れども二公は朝廷の功令に勝つ能はず、亦た人人の功名の心に勝つ能はず。故に人の之を非笑すること、猶ほ韓公の如し。而るに二公は人の非笑を顧みず、寧ろ世に知られず、此に藉りて禍を得るも、千歳の鍾期を竢つ者、亦た猶ほ韓公の如し。是れ其の心独り何ぞや。学問の道は諸を古に本づくればなり。夫れ志を立つること此くの如し。豈に模擬剽窃を是れ為さんや。此を以て之を観れば、妒口に非ずして何ぞや。
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孟子・盡心章句上孟子曰く、「孔子東山に登りて魯を小とし、泰山に登りて天下を小とす。故に海を観る者には水と為し難く、聖人の門に游ぶ者には言と為し難し。水を観るに術有り、必ず其の瀾を観る。日月明有り、光を容るるところ必ず照らす。流水の物為るや、科に盈たざれば行かず。君子の道に志すや、章を成さざれば達せず。」
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