講孟余話 / 公孫丑上 第二章
至大至剛、以直養、而無害、則塞乎天地之間、此一節最モ詳ニ読ムベシ、至大トハ浩然ノ氣ノ形狀ナリ、推恩足以保四海ト云モ卽此氣也、此氣ノ蓋フ所、四海ノ廣キ万民ノ衆キト云トモ及ハサル所ナシ、豈大ナラズヤ、然トモ此氣ヲ養ハサル時ハ、一人ニ對シテモ忸怩トシテ容サル如シ、况ヤ十数人ニ對スルヲヤ、况ヤ千万人ヲヤ、蓋シ此氣養テ是ヲ大ニスレハ其大極リナシ、餒シテ是ヲ小ニスレハ其小亦極リナシ、浩然ハ大ノ至レル者ナリ、至剛トハ浩然ノ氣ノ模樣ナリ、富貴不能淫、貧賤不能移、威武不能屈、ト云即此氣ナリ、此氣ノ凝ル所、火ニモ燒ケス水ニモ流レス、忠臣義士ノ節操ヲ立ル、頭ヲ刎ラレテモ、腰ハ斬ラレテモ、操ハ遂ニ変セズ、高官厚祿ヲ與ヘテモ、美女淫声ヲ陳ネテモ、節ハ遂ニ換ヘス、亦剛ナラズヤ、凢ソ金鉄剛ト云トモ烈火以テ鎔スベシ、玉石堅ト雖トモ鉄鑿以テ碎クベシ、唯此氣獨リ然ラズ、天地ニ通シ、古今ヲ貫キ、形骸ノ外ニ於テ、獨リ存スル者、剛ノ至ニ非スヤ、
新字:至大至剛、以直養、而無害、則塞乎天地之間、此一節最モ詳ニ読ムベシ、至大トハ浩然ノ気ノ形状ナリ、推恩足以保四海ト云モ即此気也、此気ノ蓋フ所、四海ノ広キ万民ノ衆キト云トモ及ハサル所ナシ、豈大ナラズヤ、然トモ此気ヲ養ハサル時ハ、一人ニ対シテモ忸怩トシテ容サル如シ、況ヤ十数人ニ対スルヲヤ、況ヤ千万人ヲヤ、蓋シ此気養テ是ヲ大ニスレハ其大極リナシ、餒シテ是ヲ小ニスレハ其小亦極リナシ、浩然ハ大ノ至レル者ナリ、至剛トハ浩然ノ気ノ模様ナリ、富貴不能淫、貧賤不能移、威武不能屈、ト云即此気ナリ、此気ノ凝ル所、火ニモ焼ケス水ニモ流レス、忠臣義士ノ節操ヲ立ル、頭ヲ刎ラレテモ、腰ハ斬ラレテモ、操ハ遂ニ変セズ、高官厚禄ヲ与ヘテモ、美女淫声ヲ陳ネテモ、節ハ遂ニ換ヘス、亦剛ナラズヤ、凢ソ金鉄剛ト云トモ烈火以テ鎔スベシ、玉石堅ト雖トモ鉄鑿以テ砕クベシ、唯此気独リ然ラズ、天地ニ通シ、古今ヲ貫キ、形骸ノ外ニ於テ、独リ存スル者、剛ノ至ニ非スヤ、
書き下し
「至大至剛、直を以て養ひて害ふことなければ、則ち天地の間に塞がる」。此の一節最も詳かに読むべし。至大とは浩然の気の形状なり。「恩を推せば以て四海を保つに足る」と云ふも即ち此の気なり。此の気の蓋ふ所、四海の広き万民の衆きと云へども及ばざる所なし、豈に大ならずや。然れども此の気を養はざる時は、一人に対しても忸怩として容れざる如し、況や十数人に対するをや、況や千万人をや。蓋し此の気養うて是れを大にすれば其の大極まりなし、餒ゑしめて是れを小にすれば其の小亦極まりなし。浩然は大の至れる者なり。至剛とは浩然の気の模様なり。「富貴も淫すること能はず、貧賤も移すこと能はず、威武も屈すること能はず」と云ふ即ち此の気なり。此の気の凝る所、火にも焼けず水にも流れず、忠臣義士の節操を立つる、頭を刎ねられても、腰は斬られても、操は遂に変ぜず、高官厚禄を与へても、美女淫声を陳ねても、節は遂に換へず、亦剛ならずや。凡そ金鉄剛と云へども烈火以て鎔かすべし、玉石堅しと雖も鉄鑿以て砕くべし。唯此の気独り然らず、天地に通じ、古今を貫き、形骸の外に於て、独り存する者、剛の至りに非ずや。
現代語訳
「この上なく大きく、この上なく剛く、まっすぐに養って損なうことがなければ、天地のあいだに満ちわたる」。この一節はとりわけ詳しく読むべきである。「至大」とは浩然の気のかたちである。「恩を押し広めれば天下を保つことができる」というのも、この気のことである。この気が覆うところは、天下がどれほど広く、民がどれほど多くても、及ばないところがない。なんと大きいではないか。しかしこの気を養わなければ、一人を前にしても気後れして身の置きどころがないようになる。まして十数人、千万人を前にすればなおさらである。思うに、この気は養って大きくすればその大きさに限りがなく、飢えさせて小さくすればその小ささにも限りがない。浩然とは、大きさの極みである。「至剛」とは浩然の気のありさまである。「富貴も心を乱すことができず、貧賤も志を変えることができず、威力も屈服させることができない」というのが、まさにこの気である。この気が凝り固まったところは、火にも焼けず水にも流されない。忠臣義士が節操を立てるとき、首をはねられても腰を斬られても、操はついに変わらない。高い官位や厚い禄を与えても、美女や歌舞音曲を並べても、節はついに換えない。なんと剛いではないか。およそ金や鉄が剛いといっても烈火で溶かすことができ、玉や石が堅いといっても鉄ののみで砕くことができる。ただこの気だけはそうではない。天地に通じ、古今を貫き、肉体の外にあって独り存在し続けるもの、これこそ剛の極みではないか。
解説
この章句が説くこと
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