講孟余話 / 公孫丑上 首章
戰国ノ時趙ノ武靈王、胡服騎射、以テ国人ニ教ヘ、及ヒ詐テ自ラ使者トナリ、秦ニ入リ、秦ノ地形ト、秦王ノ人トナリヲ觀ルカ如キ、非常ノ英傑ニテ、中々只人ニアラズ、然トモ脩身斉家ノ工夫ナキ故、其臣下ノ囲ムトナリ、食ヲ得ス、雀兒ヲ探テ是ヲ食ヒ、三月餘ニシテ沙丘宮ニ餓死ス、淺猿シキ事共ナリ、其禍源ヲ尋ヌルニ、武靈王初メ長子章ヲ以テ太子トス、後吳廣ノ女孟姚ヲ得テ之ヲ愛シ、爲メニ外ニ出テサルコト數歲ニシテ子何ヲ生ム、乃チ太子章ヲ廃シテ、何ヲ立ツ、其後、吳孟姚死シ、何カ愛衰フ、且故太子ヲ憐ミ両ナカラ之ヲ王トセント欲ス、猶豫シテ未タ決セス、故ニ乱起リシトソ、是亦桓公君臣ノ咲フ所ナリ、又按スルニ両ナカラ之ヲ王トスルハ、大ニ我カ上杉謙信ノ末路ニ似タリ、是皆英雄ノ失策、已ムヲ得サルニ出ル者ニシテ亦悲ムヘキノミ、
新字:戦国ノ時趙ノ武霊王、胡服騎射、以テ国人ニ教ヘ、及ヒ詐テ自ラ使者トナリ、秦ニ入リ、秦ノ地形ト、秦王ノ人トナリヲ観ルカ如キ、非常ノ英傑ニテ、中々只人ニアラズ、然トモ脩身斉家ノ工夫ナキ故、其臣下ノ囲ムトナリ、食ヲ得ス、雀児ヲ探テ是ヲ食ヒ、三月余ニシテ沙丘宮ニ餓死ス、浅猿シキ事共ナリ、其禍源ヲ尋ヌルニ、武霊王初メ長子章ヲ以テ太子トス、後呉広ノ女孟姚ヲ得テ之ヲ愛シ、為メニ外ニ出テサルコト数歳ニシテ子何ヲ生ム、乃チ太子章ヲ廃シテ、何ヲ立ツ、其後、呉孟姚死シ、何カ愛衰フ、且故太子ヲ憐ミ両ナカラ之ヲ王トセント欲ス、猶予シテ未タ決セス、故ニ乱起リシトソ、是亦桓公君臣ノ咲フ所ナリ、又按スルニ両ナカラ之ヲ王トスルハ、大ニ我カ上杉謙信ノ末路ニ似タリ、是皆英雄ノ失策、已ムヲ得サルニ出ル者ニシテ亦悲ムヘキノミ、
書き下し
戦国の時、趙の武霊王、胡服騎射以て国人に教へ、及び詐りて自ら使者となり、秦に入り、秦の地形と秦王の人となりを観るが如き、非常の英傑にて、中々只人にあらず。然れども修身斉家の工夫なき故、其の臣下の囲むところとなり、食を得ず、雀児を探りて是れを食ひ、三月余にして沙丘の宮に餓死す、浅ましき事どもなり。其の禍源を尋ぬるに、武霊王初め長子章を以て太子とす。後呉広の女孟姚を得て之れを愛し、為めに外に出でざること数歳にして子何を生む。乃ち太子章を廃して何を立つ。其の後呉孟姚死し、何が愛衰ふ。且つ故太子を憐れみ、両ながら之れを王とせんと欲す、猶予して未だ決せず、故に乱起こりしとぞ。是れ亦桓公君臣の咲ふ所なり。又按ずるに、両ながら之れを王とするは、大いに我が上杉謙信の末路に似たり。是れ皆英雄の失策、已むを得ざるに出づる者にして、亦悲しむべきのみ。
現代語訳
戦国時代の趙の武霊王は、異民族の服を着て馬上から弓を射る戦法を国人に教え、また偽って自ら使者となって秦に入り、秦の地形と秦王の人柄を観察するなど、並外れた英傑で、とてもただ者ではなかった。しかし身を修め家をととのえる工夫がなかったため、臣下に囲まれ、食べ物も得られず、すずめのひなを探して食べ、三か月余りののち沙丘の離宮で餓死した。あさましいことである。その禍の源をたずねると、武霊王は初め長男の章を太子とした。のちに呉広の娘の孟姚を得て寵愛し、そのために数年も外に出ないほどで、子の何が生まれた。そこで太子の章を廃して何を立てた。その後、孟姚が死ぬと何への愛情も衰え、また廃した太子を哀れんで、二人とも王にしようとし、ぐずぐずして決めかねたので、乱が起こったという。これは桓公の君臣も笑うようなことである。また考えると、二人とも王にしようとしたのは、わが国の上杉謙信の末路によく似ている。これはみな英雄の失策で、やむを得ないところから出たものであり、ただ悲しむべきである。
解説
この章句が説くこと
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史記 趙世家吾之を聞くなり、姦臣朝に在るは、国の残なり。讒臣中に在るは、主の蠹なり。此の人貪にして欲大なり。内には主を得て外には暴を為す。令を矯めて慢を為し、以て一旦の命を擅にすること、為すに難からず。禍且に国に逮ばんとす。今吾之を憂へ、夜も寐ぬるを忘れ、饑ゑても食らふを忘る。盗賊の出入は備へざるべからず。今より以来、若し王を召す者有らば必ず吾が面を見よ。我将に先づ身を以て之に当たらんとす。故無くして王乃ち入れ」と。信期曰く、「善いかな、吾此を聞くことを得たり」と。四年、群臣を朝せしむ。安陽君も亦来り朝す。主父、王をして朝を聴かしめ、而して自ら旁より群臣宗室の礼を観窺す。其の長子章の傫然として、反りて北面して臣と為り、其の弟に詘するを見て、心に之を憐む。是に於て乃ち趙を分ちて章を代に王とせんと欲す。計未だ決せずして輟む。主父及び王沙丘に游び、宮を異にす。公子章即ち其の徒と田不礼とを以て乱を作し、詐りて主父の令を以て王を召す。肥義先づ入り、之を殺す。高信即ち王と戦ふ。公子成と李兌、国より至り、乃ち四邑の兵を起こして入りて難を距ぎ、公子章及び田不礼を殺し、其の党賊を滅ぼして王室を定む。公子成相と為り、安平君と号す。李兌司寇と為る。公子章の敗るるや、往きて主父に走る。主主之を開く。成・兌因りて主父の宮を囲む。公子章死す。公子成・李兌謀りて曰く、「章の故を以て主父を囲む。即し兵を解かば、吾が属夷せられん」と。乃ち遂に主父を囲む。宮中の人に令す「後れて出づる者は夷せん」と。宮中の人悉く出づ。主父出でんと欲するも得ず、又食を得ず、爵鷇を探りて之を食らふ。三月余にして沙丘の宮に餓死す。主父定めて死し、乃ち喪を発して諸侯に赴ぐ。是の時王少く、成・兌政を専らにし、誅を畏る。故に主父を囲む。
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史記 趙世家子及ばざるなり」と。遂に胡服して騎射を招く。二十年、王中山の地を略し、寧葭に至る。西のかた胡の地を略し、楡中に至る。林胡王馬を献ず。帰りて、楼緩をして秦に之かしめ、仇液を韓に、王賁を楚に、富丁を魏に、趙爵を斉に之かしむ。代の相趙固胡を主り、其の兵を致す。二十一年、中山を攻む。趙袑右軍と為り、許鈞左軍と為り、公子章中軍と為り、王并せて之に将たり。牛翦車騎に将たり。趙希并せて胡・代に将たり。趙之に陘を与へ、軍を曲陽に合し、丹丘・華陽・鴟の塞を攻め取る。王の軍鄗・石邑・封龍・東垣を取る。中山四邑を献じて和す。王之を許し、兵を罷む。二十三年、中山を攻む。二十五年、恵后卒す。周袑をして胡服して王子何に傅たらしむ。二十六年、復た中山を攻め、地を攘ひて北は燕・代に至り、西は雲中・九原に至る。二十七年五月戊申、大いに東宮に朝し、国を伝へ、王子何を立てて以て王と為す。王廟見の礼畢はり、出でて朝に臨む。大夫悉く臣と為る。肥義相国と為り、并せて王に傅たり。是を恵文王と為す。恵文王は、恵后呉娃の子なり。武霊王自ら号して主父と為す。主父、子をして国を治むるを主らしめんと欲して、身は胡服して士大夫を将ゐて西北のかた胡の地を略し、而して雲中・九原より直ちに南して秦を襲はんと欲す。是に於て詐りて自ら使者と為りて秦に入る。秦の昭王知らず。已にして其の状甚だ偉にして、人臣の度に非ざるを怪しみ、人をして之を逐はしむ。而るに主父馳せて已に関を脱す。審らかに之を問へば、乃ち主父なり。秦人大いに驚く。主父の秦に入りし所以の者は、自ら地形を略し、因りて秦王の人と為りを観んと欲すればなり。恵文王二年、主父新地を行り、遂に代に出で、西のかた楼煩王に西河に遇ひて其の兵を致す。三年、中山を滅ぼし、其の王を膚施に遷す。霊寿を起こし、北地方に従ひ、代の道大いに通ず。
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史記 趙世家武霊王曰く、「今中山我が腹心に在り、北に燕有り、東に胡有り、西に林胡・楼煩・秦・韓の辺有り、而して彊兵の救無し、是れ社稷を亡ふなり、柰何。夫れ高世の名有るは、必ず遺俗の累有り。吾胡服せんと欲す」と。楼緩曰く、「善し」と。群臣皆欲せず。
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史記 趙世家五年、韓の女を娶りて夫人と為す。八年、韓秦を撃つも、勝たずして去る。五国相王とす。趙独り否とし、曰く、「其の実無くして、敢へて其の名に処らんや」と。国人をして己を謂ひて「君」と曰はしむ。九年、韓・魏と共に秦を撃つ。秦我を敗り、首を斬ること八万級。斉我を観沢に敗る。十年、秦我が中都及び西陽を取る。斉燕を破る。燕の相子之君と為り、君反りて臣と為る。十一年、王公子職を韓より召し、立てて以て燕王と為し、楽池をして之を送らしむ。十三年、秦我が藺を抜き、将軍趙荘を虜にす。楚・魏の王来り、邯鄲を過る。十四年、趙何魏を攻む。十六年、秦の恵王卒す。王大陵に遊ぶ。他日、王夢に処女の琴を鼓して詩を歌ふを見る。曰く、「美人熒熒たり、顔は苕の栄の若し。命なるかな命なるかな、曾て我が嬴無し」と。異日、王酒を飲みて楽しみ、数々夢みし所を言ひ、其の状を想見す。呉広之を聞き、夫人に因りて其の女娃嬴を内る。孟姚なり。孟姚甚だ王に寵有り、是を恵后と為す。十七年、王九門に出で、野台を為り、以て斉・中山の境を望む。十八年、秦の武王孟説と龍文の赤鼎を挙げ、臏を絶ちて死す。趙王、代の相趙固をして公子稷を燕に迎へしめ、送り帰して、立てて秦王と為す、是を昭王と為す。十九年春正月、大いに信宮に朝す。肥義を召して与に天下を議し、五日にして畢る。王北のかた中山の地を略し、房子に至り、遂に代に之き、北のかた無窮に至り、西のかた河に至り、黄華の上に登る。
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史記 趙世家主父初め長子章を以て太子と為す。後に呉娃を得て、之を愛し、為に出でざること数歳。子何を生む。乃ち太子章を廃して何を立てて王と為す。呉娃死し、愛弛み、故の太子を憐み、両つながら之を王とせんと欲し、猶予して未だ決せず。故に乱起こり、以て父子倶に死し、天下の笑ひと為るに至る。豈に痛ましからずや。(主父死して恵文王立つ立つ)五年、燕に鄚・易を与ふ。八年、南行唐に城く。九年、趙梁将として、斉と軍を合して韓を攻め、魯関の下に至る。十年に及び、秦自ら置きて西帝と為る。十一年、董叔、魏氏と宋を伐ち、河陽を魏に得たり。秦保陽を取る。十二年、趙梁将として斉を攻む。十三年、韓徐将と為りて、斉を攻む。公主死す。十四年、相国楽毅、趙・秦・韓・魏・燕に将として斉を攻め、霊丘を取る。秦と中陽に会す。十五年、燕の昭王来り見ゆ。趙、韓・魏・秦と共に斉を撃つ。斉王敗走し、燕独り深く入り、臨菑を取る。十六年、秦復た趙と数々斉を撃つ。斉人之を患ふ。蘇厲斉の為に趙王に書を遺りて曰く、臣聞く、古の賢君は、其の徳行海内に布くに非ず、教順民人に洽きに非ず、祭祀時享鬼神に数常なるに非ず。甘露降り、時雨至り、年穀豊孰し、民疾疫せず、衆人之を善しとす。然れども賢主は之を図る。今足下の賢行功力は、数々秦に加ふるに非ず。怨毒積怒は、素より斉に深きに非ず。秦・趙与国となり、彊を以て兵を韓に徴す。秦誠に趙を愛するか。其れ実に斉を憎むか。物の甚だしき者は、賢主之を察す。秦は趙を愛して斉を憎むに非ず、韓を亡ぼして二周を呑まんと欲す。故に斉を以て天下を餤らはす。事の合はざらんことを恐る、故に兵を出だして以て魏・趙を劫かす。天下の己を畏れんことを恐る、故に質を出だして以て信と為す。天下の亟かに反かんことを恐る、故に兵を韓に徴して以て之を威す。
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史記 趙世家十九年、斉・宋と平陸に会し、燕と阿に会す。二十年、魏栄椽を献ず。因りて以て檀台と為す。二十一年、魏我が邯鄲を囲む。二十二年、魏の恵王我が邯鄲を抜く。斉も亦魏を桂陵に敗る。二十四年、魏我に邯鄲を帰し、魏と漳水の上に盟ふ。秦我が藺を攻む。二十五年、成侯卒す。公子紲、太子粛侯と立つを争ふ。紲敗れて亡げて韓に奔る。粛侯元年、晋君の端氏を奪ひ、徙して屯留に処らしむ。二年、魏の恵王と陰晋に遇ふ。三年、公子范邯鄲を襲ふも、勝たずして死す。四年、天子に朝す。六年、斉を攻め、高唐を抜く。七年、公子刻魏の首垣を攻む。十一年、秦の孝公、商君をして魏を伐たしめ、其の将公子卬を虜にす。趙魏を伐つ。十二年、秦の孝公卒し、商君死す。十五年、寿陵を起こす。魏の恵王卒す。十六年、粛侯大陵に游び、鹿門より出づ。大戊午馬を扣へて曰く、「耕事方に急なり。一日作さずんば、百日食らはず」と。粛侯車を下りて謝す。十七年、魏の黄を囲むも、克たず。長城を築く。十八年、斉・魏我を伐つ。我河水を決して之に灌ぐ。兵去る。二十二年、張儀秦に相たり。趙疵秦と戦ひ、敗る。秦疵を河西に殺し、我が藺・離石を取る。二十三年、韓挙斉・魏と戦ひ、桑丘に死す。二十四年、粛侯卒す。秦・楚・燕・斉・魏、鋭師各々万人を出だして来りて葬に会す。子武霊王立つ。武霊王元年、陽文君趙豹相たり。梁の襄王と太子嗣、韓の宣王と太子倉、来りて信宮に朝す。武霊王少く、未だ政を聴くこと能はず。博聞の師三人、左右の司過三人あり。政を聴くに及び、先づ先王の貴臣肥義に問ひ、其の秩を加ふ。国の三老の年八十なるものには、月ごとに其の礼を致す。三年、鄗に城く。四年、韓と区鼠に会す。
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