講孟余話 / 公孫丑上 首章
是ヲ以テ王者ノ政ヲナスハ、身ヲ治メ家ヲ齊ルヲ以テ先務トス、身ヲ治メ家ヲ斉ルヲ先務トスルハ、事迂濶ナル如ナレトモ、其法子孫ニ傳リ、幾世ヲ經テモ動搖セザルノミナラズ、益々興隆スル者ナリ、創業垂統爲可継ト云モ此事ナリ、豐公ノ如キ非常ノ大豪傑ニテ、一世ヲ鼓舞スレトモ、其後嗣彼カ如シ、恐多キコトナレトモ、本藩ノ如キハ、洞春公以來大義ヲ重ンシ懿親ヲ敦フシ、以テ今ニ至ル、長防褊小ト雖、萬世ノ基業動搖スルコトナシ、此ヲ以テ彼ニ比セハ、孰レカ優レル、孰レカ劣レル、曾西ノ才管仲ニ及ハスト云トモ、管仲ニ比スルコトヲ欲セザルハ是ヲ以テノミ、噫是王覇ノ辨也、
新字:是ヲ以テ王者ノ政ヲナスハ、身ヲ治メ家ヲ斉ルヲ以テ先務トス、身ヲ治メ家ヲ斉ルヲ先務トスルハ、事迂濶ナル如ナレトモ、其法子孫ニ伝リ、幾世ヲ経テモ動揺セザルノミナラズ、益々興隆スル者ナリ、創業垂統為可継ト云モ此事ナリ、豊公ノ如キ非常ノ大豪傑ニテ、一世ヲ鼓舞スレトモ、其後嗣彼カ如シ、恐多キコトナレトモ、本藩ノ如キハ、洞春公以来大義ヲ重ンシ懿親ヲ敦フシ、以テ今ニ至ル、長防褊小ト雖、万世ノ基業動揺スルコトナシ、此ヲ以テ彼ニ比セハ、孰レカ優レル、孰レカ劣レル、曽西ノ才管仲ニ及ハスト云トモ、管仲ニ比スルコトヲ欲セザルハ是ヲ以テノミ、噫是王覇ノ弁也、
書き下し
是れを以て王者の政をなすは、身を治め家を斉ふるを以て先務とす。身を治め家を斉ふるを先務とするは、事迂濶なる如くなれども、其の法子孫に伝はり、幾世を経ても動揺せざるのみならず、益々興隆する者なり。業を創め統を垂るるは継ぐべきを為すと云ふも此の事なり。豊公の如き非常の大豪傑にて、一世を鼓舞すれども、其の後嗣彼が如し。恐れ多きことなれども、本藩の如きは、洞春公以来大義を重んじ懿親を敦うし、以て今に至る。長防褊小と雖も、万世の基業動揺することなし。此れを以て彼に比せば、孰れか優れる、孰れか劣れる。曾西の才管仲に及ばずと云へども、管仲に比することを欲せざるは是れを以てのみ。噫、是れ王覇の弁なり。
現代語訳
だから王者が政治をするには、身を治め家をととのえることを第一の務めとする。身を治め家をととのえるのを第一にするのは、回りくどく見えるが、そのやり方は子孫に伝わり、何代たっても揺らがないばかりか、ますます盛んになるのである。「事業を始め筋道を伝えるには、継げることをする」というのも、このことである。豊臣秀吉のような並外れた大豪傑で、一代の世を奮い立たせたが、その跡継ぎはあのとおりであった。恐れ多いことだが、わが藩などは、洞春公(毛利元就)以来、大義を重んじ、一族の親しみを厚くして今に至っている。長門・周防は狭く小さいけれども、万代の基礎は揺らぐことがない。これをあれと比べれば、どちらが優れ、どちらが劣っているか。曾西の才は管仲に及ばないとはいえ、管仲と比べられることを望まなかったのは、このためである。ああ、これが王道と覇道の区別である。
解説
この章句が説くこと
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『墨子』耕柱公孟子曰く、「君子は作らず、術ぶるのみ」と。子墨子曰く、「然らず。人の其れ君子ならざる者は、古の善き者は誅がず、今や善き者は作らず。其の次に君子ならざる者は、古の善き者は遂げず、已に善有れば則ち之を作り、善の己より出でんことを欲す。今、誅ぎて作らざるは、是れ遂ぐるを好まずして作る者に異なる所無きなり。吾れ以為えらく、古の善き者は則ち之を誅ぎ、今の善き者は則ち之を作り、善の益ます多からんことを欲すと」と。
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『武士道』第十六章 武士道の命脈・七百年に蓄積したる動量其メーソニック・サイン明亮なることは、個々の間、暗号を有せずしてなお能く直ちに感通するを得るに足るものあり、となす。武士道の我国民、特に士林に印象したる性格は、之を以て種属の具有する不変の要素を形成するものなりと称するを得ずと雖、なお之れが活力を保有せることは、復た疑を容れず。武士道もしただ物理力に過ぎずとすとも、なお既往七百年の間に蓄積したる動量は、俄然停止するを得べきに非ず。武士道はただ遺伝によりてのみ継承したりとすとも、其感化の範囲はすこぶる広大ならずんばあらず。試みに思へ、仏国経済学者ケソン氏が、仮に一世紀を人間三代と定めて打算せば、『吾人は各自其血管中に、紀元一千年に生存したる、少くも二千万人の血液を伝ふるものなり』と云へるを。
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孟子・盡心章句下孟子曰く、「堯舜由り湯に至るまで、五百有餘歲。禹・皋陶の若きは、則ち見て之を知る。湯の若きは、則ち聞きて之を知る。湯由り文王に至るまで、五百有餘歲。伊尹・萊朱の若きは、則ち見て之を知る。文王の若きは、則ち聞きて之を知る。文王由り孔子に至るまで、五百有餘歲。太公望・散宜生の若きは、則ち見て之を知る。孔子の若きは、則ち聞きて之を知る。孔子由り而來今に至るまで、百有餘歲。聖人の世を去ること、此の若く其れ未だ遠からざるなり。聖人の居に近きこと、此の若く其れ甚しきなり。然り而して有ること無しとせば、則ち亦た有ること無からん。」
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『驢鞍橋』卷下因に云ふ、大形昔より師一人にして、二代になれば、早や衰ふと見えたり。然ればこそ、仏弟子より此の位有る也。仏経には勇猛精進と多く説き給ふに、その後誰れでも沙汰したる人を聞かす、若し沙汰せば、先つ迦葉のめされんすか早や替りたると見えたり。総而昔も今の如く、善き者出でにくかるべし。替り有るべからず。皆知らずして仏の御出世なる間、誰れをも彼れをも善からんずと計思はるゝ也。時に僧問ふ、普化は仏境界の人と承る、何ぞ度人なきや。師曰く、中中さつさつとしたる活境界にて、度人も何も有る様の機に非ず、是れはよく我知ると也。
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