講孟余話 / 梁惠王上 第五章
吾試ニ孟子ノ策ノ本末ヲ論セン、仁政ヲ民ニ施シ、刑罰ヲ省キ、稅斂ヲ薄フスル、是其第一下手ノ處ニシテ、夫ヨリ封疆ノ諸城ヲ撤シ、兵ハ悉ク農ニ帰シ、天下ノ費、兵ヨリ甚シキハナシ、兵ヲ省カズンハ何ヲ以テ稅斂ヲ薄センヤ、政ノ民ニ便ナル者ハ、難易ヲ論セズ、必ズ擧行シ、士ノ民ヲ治ムルニ堪ユル者ハ、遠近親疎ヲ論セズ、必ズ擢用シ、務メテ民ト休息シ、民ヲシテ我ヲ信戴シテ休サラシム、若シ一旦三国兵ヲ以テ來侵スルコトアラハ、大ニ国中ニ令シテ云ク、我方ニ斯民ヲ愛育セント欲ス、如何セン隣国ノ逼迫トナリ、却テ斯民ヲ苦惱セシムルニ至ル、哀ムニ堪ヘズ、民等意ニ任セテ出降リ其性命ヲ全フスベシ、我已ニ此国ニ主タリ、一死社稷ノ爲ニスルアルノミ、敢テ寸步ヲ退避セズト、果シテ斯ノ如クンハ、四方忠義ノ士、豈感慨シテ興起セサランヤ、誠ニ斯ノ如クナレハ、誰カ其国ヲ奪フコトヲ得ンヤ、况ヤ此時秦楚斉ノ諸国国富ミ兵強ク將能ナリト雖トモ、原ト民ヲ安スルヲ以テ心トスル者アルコトナケレハ、数月ナラズシテ潰走スルコト必セリ、
新字:吾試ニ孟子ノ策ノ本末ヲ論セン、仁政ヲ民ニ施シ、刑罰ヲ省キ、税斂ヲ薄フスル、是其第一下手ノ処ニシテ、夫ヨリ封疆ノ諸城ヲ撤シ、兵ハ悉ク農ニ帰シ、天下ノ費、兵ヨリ甚シキハナシ、兵ヲ省カズンハ何ヲ以テ税斂ヲ薄センヤ、政ノ民ニ便ナル者ハ、難易ヲ論セズ、必ズ挙行シ、士ノ民ヲ治ムルニ堪ユル者ハ、遠近親疎ヲ論セズ、必ズ擢用シ、務メテ民ト休息シ、民ヲシテ我ヲ信戴シテ休サラシム、若シ一旦三国兵ヲ以テ来侵スルコトアラハ、大ニ国中ニ令シテ云ク、我方ニ斯民ヲ愛育セント欲ス、如何セン隣国ノ逼迫トナリ、却テ斯民ヲ苦悩セシムルニ至ル、哀ムニ堪ヘズ、民等意ニ任セテ出降リ其性命ヲ全フスベシ、我已ニ此国ニ主タリ、一死社稷ノ為ニスルアルノミ、敢テ寸歩ヲ退避セズト、果シテ斯ノ如クンハ、四方忠義ノ士、豈感慨シテ興起セサランヤ、誠ニ斯ノ如クナレハ、誰カ其国ヲ奪フコトヲ得ンヤ、況ヤ此時秦楚斉ノ諸国国富ミ兵強ク将能ナリト雖トモ、原ト民ヲ安スルヲ以テ心トスル者アルコトナケレハ、数月ナラズシテ潰走スルコト必セリ、
書き下し
吾試みに孟子の策の本末を論ぜん。仁政を民に施し、刑罰を省き、税斂を薄うする、是れ其の第一下手の処にして、夫れより封疆の諸城を撤し、兵は悉く農に帰す。天下の費、兵より甚しきはなし、兵を省かずんば何を以て税斂を薄くせんや。政の民に便なる者は、難易を論ぜず必ず挙行し、士の民を治むるに堪ふる者は、遠近親疎を論ぜず必ず擢用し、務めて民と休息し、民をして我を信戴して休さらしむ。若し一旦三国兵を以て来侵することあらば、大いに国中に令して云く、我方に斯の民を愛育せんと欲す、如何せん隣国の逼迫となり、却つて斯の民を苦悩せしむるに至る、哀しむに堪へず。民等意に任せて出で降り其の性命を全うすべし。我已に此の国に主たり、一死社稷の為めにするあるのみ、敢へて寸歩を退避せずと。果して斯くの如くんば、四方忠義の士、豈に感慨して興起せざらんや。誠に斯くの如くなれば、誰か其の国を奪ふことを得んや。況んや此の時秦楚斉の諸国、国富み兵強く将能なりと雖も、原と民を安んずるを以て心とする者あることなければ、数月ならずして潰走すること必せり。
現代語訳
試みに孟子の策の初めから終わりまでを論じてみよう。民に仁政を施し、刑罰を減らし、税を軽くする。これが第一の着手点で、そこから国境の城を取り払い、兵はすべて農に戻す。天下の出費で兵ほど大きいものはない。兵を減らさなければ、どうして税を軽くできようか。民のためになる政治は、難しかろうと易しかろうと必ず行い、民を治めるに足る人物は、遠い者も近い者も、親しい者も疎い者も問わず必ず登用し、努めて民と共に休み、民が自分を信じ戴いて離れないようにする。もし三国が兵を率いて攻めてきたら、国じゅうにこう布告する。「私はこの民を慈しみ育てようとしてきたが、隣国に迫られ、かえって民を苦しめることになった。哀しくてならない。民は思うままに降って命を全うせよ。私はすでにこの国の主である。国のために一死あるのみで、一歩も退かない」。本当にこのようであれば、四方の忠義の士が感じて奮い立たないはずがない。まことにこうであれば、誰がその国を奪えようか。まして当時の秦・楚・斉は、国が富み兵が強く将が有能であっても、もともと民を安んじることを心とする者はいないのだから、数か月もたたずに潰走するに違いない。
解説
この章句が説くこと
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『呻吟語』外篇・治道・人を我に體す先王の政を為すは、全く人心の上に在りて工夫を用ふ。其の人心を體するは、我が心の上に在りて工夫を用ふ。何者ぞ。同然の故なり。故に先王は人を我に體して、民心得られ、天下治まる。
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史記 項羽本紀項王乃ち海春侯大司馬曹咎等に謂ひて曰く、「謹みて成皋を守れ、則ち漢挑戦せんと欲するも、慎みて与に戦ふ勿かれ、東するを得しむる毋きのみ。我十五日にして必ず彭越を誅し、梁の地を定め、復た将軍に従はん。」と。乃ち東し、行くゆく陳留・外黄を撃つ。外黄下らず。数日にして、已に降る、項王怒り、悉く男子の年十五已上をして城東に詣らしめ、之を阬にせんと欲す。外黄の令の舎人の児年十三、往きて項王に説きて曰く、「彭越彊ひて外黄を劫かす、外黄恐る、故に且く降りて、大王を待つ。大王至りて、又皆之を阬にせば、百姓豈に帰心有らんや。此より以東、梁の地十余城皆恐れ、肯へて下る莫からん。」と。項王其の言を然りとし、乃ち外黄の当に阬にすべき者を赦す。東して睢陽に至る、之を聞きて皆争ひて項王に下る。漢果たして数(しばしば)楚の軍に挑みて戦はんとす、楚の軍出でず。人をして之を辱めしむること、五六日、大司馬怒り、兵を汜水に渡す。士卒半ば渡る、漢之を撃ち、大いに楚の軍を破り、尽く楚国の貨賂を得たり。大司馬咎・長史翳・塞王欣皆汜水の上に自剄す。大司馬咎は、故の蘄の獄掾、長史欣も亦故の櫟陽の獄吏、両人嘗て項梁に徳有り、是を以て項王之を信任す。是の時に当たりて、項王睢陽に在り、海春侯の軍敗るると聞き、則ち兵を引きて還る。漢の軍方に鍾離眛を滎陽の東に囲む、項王至る、漢の軍楚を畏れ、尽く険阻に走る。是の時、漢の兵盛んにして食多く、項王の兵罷れて食絶ゆ。漢陸賈を遣はして項王に説き、太公を請はしむ、項王聴かず。漢王復た侯公をして往きて項王に説かしむ、項王乃ち漢と約し、天下を中分し、鴻溝以西を割く者を漢と為し、鴻溝よりして東なる者を楚と為す。項王之を許し、即ち漢王の父母妻子を帰す。軍皆万歳を呼ぶ。漢王乃ち侯公を封じて平国君と為す。匿れて肯へて復た見えず。
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史記 高祖本紀且つ吾の軍を霸上に還す所以は、諸侯の至るを待ちて約束を定めんのみ。」と。乃ち人をして秦の吏と県郷邑を行かしめ、之に告諭す。秦人大いに喜び、争ひて牛羊酒食を持ちて軍士に献饗す。沛公又譲りて受けず、曰く、「倉粟多し、乏しきに非ず、人に費さしむるを欲せず。」と。人又益々喜び、唯だ沛公の秦王と為らざらんことを恐る。
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史記 項羽本紀美人有り名は虞、常に幸せられて従ふ。駿馬名は騅、常に之に騎る。是に於て項王乃ち悲歌忼慨し、自ら詩を為りて曰く、「力は山を抜き気は世を蓋ふ、時利あらず騅逝かず。騅の逝かざる可奈何(いかん)すべき、虞や虞や若を奈何せん。」と。歌ふこと数闋、美人之に和す。項王泣数行下る、左右皆泣き、能く仰ぎ視る莫し。是に於て項王乃ち馬に上りて騎す、麾下の壮士騎して従ふ者八百余人、直ちに夜囲みを潰して南に出で、馳走す。平明、漢の軍乃ち之を覚り、騎将灌嬰をして五千騎を以て之を追はしむ。項王淮を渡る、騎の能く属する者百余人のみ。項王陰陵に至り、迷ひて道を失ひ、一田父に問ふ、田父紿(あざむ)きて曰く「左」と。左すれば、乃ち大沢の中に陥る。故を以て漢之に追ひ及ぶ。項王乃ち復た兵を引きて東し、東城に至る、乃ち二十八騎有り。漢の騎の追ふ者数千人。
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