講孟余話 / 梁惠王上 首章
今且諸君ト獄中ニ在テ学ヲ講スルノ意ヲ論ゼン、俗情ヲ以テ論スル時ハ、今已ニ囚奴ト成ル、人界ニ接シ天日ヲ拜スルノ望アルコトナシ、講学切劘シテ成就スル所アリト雖トモ何ノ功效カアラント云ハヽ、是レ所謂利ノ說ナリ、仁義ノ說ニ至テハ然ラズ、人心ノ固有スル所事理ノ當然ナル所、一トシテ爲サル所ナシ、人ト生レテ人ノ道ヲ知ラズ、臣ト生レテ臣ノ道ヲ知ラズ、子ト生レテ子ノ道ヲ知ラズ、士ト生レテ士ノ道ヲ知ラズ、豈恥ツヘキノ至リナラズ、若シ是ヲ恥ルノ心アラバ、書ヲ読道ヲ学ブノ外術アルコトナシ、已ニ其数箇ヲ道ヲ知ルニ至ラハ、我心ニ於テ豈悅バシカラサランヤ、朝聞道夕死可矣ト云ハ是ナリ、亦何ゾ更ニ功效ヲ論スルニ足ンヤ、諸君若シ茲ニ志アラハ、初テ孟子ノ徒タルコトヲ得ン、
新字:今且諸君ト獄中ニ在テ学ヲ講スルノ意ヲ論ゼン、俗情ヲ以テ論スル時ハ、今已ニ囚奴ト成ル、人界ニ接シ天日ヲ拝スルノ望アルコトナシ、講学切劘シテ成就スル所アリト雖トモ何ノ功効カアラント云ハヽ、是レ所謂利ノ説ナリ、仁義ノ説ニ至テハ然ラズ、人心ノ固有スル所事理ノ当然ナル所、一トシテ為サル所ナシ、人ト生レテ人ノ道ヲ知ラズ、臣ト生レテ臣ノ道ヲ知ラズ、子ト生レテ子ノ道ヲ知ラズ、士ト生レテ士ノ道ヲ知ラズ、豈恥ツヘキノ至リナラズ、若シ是ヲ恥ルノ心アラバ、書ヲ読道ヲ学ブノ外術アルコトナシ、已ニ其数箇ヲ道ヲ知ルニ至ラハ、我心ニ於テ豈悦バシカラサランヤ、朝聞道夕死可矣ト云ハ是ナリ、亦何ゾ更ニ功効ヲ論スルニ足ンヤ、諸君若シ茲ニ志アラハ、初テ孟子ノ徒タルコトヲ得ン、
書き下し
今且く諸君と獄中に在りて学を講ずるの意を論ぜん。俗情を以て論ずる時は、今已に囚奴と成る、人界に接し天日を拝するの望あることなし。講学切劘して成就する所ありと雖も何の功効かあらんと云はば、是れ所謂利の説なり。仁義の説に至りては然らず。人心の固有する所、事理の当然なる所、一として為さざる所なし。人と生まれて人の道を知らず、臣と生まれて臣の道を知らず、子と生まれて子の道を知らず、士と生まれて士の道を知らず、豈に恥づべきの至りならずや。若し是れを恥づるの心あらば、書を読み道を学ぶの外術あることなし。已に其の数箇の道を知るに至らば、我が心に於て豈に悦ばしからざらんや。朝に道を聞かば夕に死すとも可なりと云ふは是れなり。亦何ぞ更に功効を論ずるに足らんや。諸君若し茲に志あらば、初めて孟子の徒たることを得ん。
現代語訳
さて、諸君と獄中で学問を講じる意味を論じよう。世俗の考えで言えば、私たちはすでに囚人となり、人の世に交わり、天日を仰ぐ望みもない。学問を講じて磨き合い、何かを成し遂げたとしても、何の効果があろうかと言うなら、それがいわゆる利の説である。仁義の説はそうではない。人の心にもともと備わり、物事の道理として当然のことで、しなくてよいものは一つもない。人として生まれて人の道を知らず、臣として生まれて臣の道を知らず、子として生まれて子の道を知らず、士として生まれて士の道を知らないのは、恥ずべきことの極みではないか。もしこれを恥じる心があるなら、書を読み道を学ぶほかに方法はない。そうしていくつかの道を知るに至れば、心の中でどうして喜ばずにいられようか。「朝に道を聞けば、夕方に死んでもよい」というのはこのことである。このうえ効果を論じる必要などあろうか。諸君がもしこれに志すなら、はじめて孟子の門徒と言えるだろう。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『慎思録』巻之四衆人の人為る、草木禽獣の物為ると、其の生けるときは則ち異なりて、其の死するときは則ち同じ。何となれば則ち、衆人は下愚なりと雖も、其の生ける時は亦た皆五品の交はり、四民の業有り。且つ衣食の養、屋室の安有り。誠に禽獣と同じからず。其の既に死するに迨んでは、一たび腐壊に帰し、徳行の人に遺す無く、令名の世に伝はる無く、一時に漸く尽きて余り無し。草木禽獣と異なること無し。人為る者、豈に之を恥づることを知らざるべけんや。如し之を恥ぢば、学を為すに如くは無し。学びて得る有れば、則ち徳沢功名後世に流れて滅びず、虚生せずと為す。此れ君子の没後、衆人及び禽獣草木に異なる所以なり。
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『慎思録』巻之二記に云ふ、説を勦ること毋かれ、と。蓋し他人の説を攬り取りて、以て己が説と為す、之を勦説と謂ふ。夫れ他人の財を窃むすら、猶ほ之を盗と謂ふ。然るを況んや他人の美を掠め取りて、以て己が美と為すをや。賤しむべきの甚だしきなり。先輩長者に好んで人の言を取りて之を用ゐる者有り、人に告げて曰く、惟れ吾が謀に非ず、誰某の説なり、と。是れ言を取るの法と為すべし。然るに近世中華の才子も、亦た往々にして前輩の説を攬り取りて、以て己が説と為す者有り。其の志懾し。近世の薄俗、本邦の人も、往々にして亦た此くの如し。恥を知らざるの甚だしきなり。
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『斉家論』上然れども推し出だし儒者とはいはれまじ。又世間に沙汰なき人にも出会うて見れば、経書はいふに及ばず、詩作文章達者なる能き学者あり。又儒者ならねども、少し心がけある人には、汝ぐらゐの学者は町並にも有るべし。其の中にて無縁の講釈すると、口広き事はいはれまじ。夫をもかまはず書付を出だされなば、聴く者もあるべけれど、一度聞きては、素読同前の講釈なりといひ、又口の悪しき者は、あの学問にて講釈するは、笑ふにたらずと譏るべし。たとひ十日廿日入れかはり聴衆ありとも、つづくまじ。其の時に至り、しまはんよりは、今七八年も学問し出でられなば、本望もとげ、恥を受くることも少なからんといはれし人も、過ぎ去りむかしがたりになりぬ。或人のいへるごとく、
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『武士道』第八章 名譽・恥を知るは諸徳の原たとひ微小なりとも、創を蒙らんことは我が願ふ所にあらず』と。白石の既に少年の日に当り、いやしくも節を屈し、恥を負ふの事を甘んじ、以て畢生の大創を蒙り、敢て其天分を壊り、品性を害することを肯ぜざりしもの、実に士たるの本懐を吐露して違はざりしものと謂ふべし。孟子が『羞悪の心は義の端なり』と教へてより後、二千年にして、カーライルは殆ど同義の弁をなして曰へり。『恥を知るは、諸徳の原、良容善行の根なり』と。武士は恥を恐るること甚だしきものありき。我国文学は、シェイクスピアがノーフォークの口に上ぼせたるが如き雄弁なる詞句を有せざれど、なお恥を恐るるの念は、武士の頭上に懸れるダモクレスの剣なりき。然り、恥を恐るるは大に可なり。されど其の過ぐるや、往々病的なる性質を帯ぶることなきにあらず。
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『武士道』第八章 名譽・新井白石と小蛇の創史上、哀事多し。されど未だ人類の母エバが、騒立つ胸、戦く指に、粗き針取りて、憂に沈める良人の摘み与ふる無花果の葉を綴るの光景の如く哀しきはあらず。神明に背く覿面の罪果は、人間に固着して離るべからず。裁縫の技の如何に精妙を極むとも、未だ羞恥を包むに足るべき蔽膝を縫ふ能はず。新井白石の年少うして苦学するや、富人某といふものあり、其志の超凡なるを見、之に孫女を妻はし、且つ給するに勤学の資を以てせんと乞ひしに、白石之を辞し、『昔、霊潭に小蛇棲めり。人あり小刀を抜き、其腮に微傷を負はしむるや、たちまち丈余の大蛇と化して斃れ、頭上に尺余の創痕を有したりと云ふ。富人の欲する所は、即ち小蛇を傷くることなり。されど後来、我れ家を興し、名を成さんには、其創ことに大なるものあらん。
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『正法眼蔵随聞記』巻三是れに愧て辞すといへども、猶終に首座に請す、其の後元首座此の詞はを記録して、自らを愧しめて師の美言を顕はす、今ま是を案ずるに、昇進を望み、物のかしらとなり、長老とならんと思ふことをば、古人是を慚ぢしむ、只道を悟らんとのみ思ふて余事あるべからず、
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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