講孟余話 / 孟子序說
然トモ此論是レ国体上ヨリ出テ來ル所ナリ、漢土ニ在テハ君道自ラ別ナリ、大氏聰明睿智億兆ノ上ニ傑出スル者其君長トナルヲ故ニ堯舜ハ其位ヲ他人ニ讓リ、湯武ハ其主ヲ放伐スレトモ聖人ニ害ナシトス、我邦ハ上天朝ヨリ下列藩ニ至ル迄、千万世々襲シテ絕サルコト中々漢土ナトノ比スヘキニ非ズ、故ニ漢土ノ臣ハ縱ハ半季渡リノ奴婢ノ如シ、其主ノ善惡ヲ擇ンテ轉移スルコト固其所ナリ、我邦ノ臣ハ譜第ノ臣ナレハ、主人ト死生休戚ヲ同フシ、死ニ至ルト雖トモ主ヲ棄テ去ルヘキノ道絕テナシ、嗚呼我父母ハ何国ノ人ゾ、我衣食ハ何国ノ物ゾ、書ヲ讀、道ヲ知ル、亦誰ガ恩ゾ、今少シク主ニ遇ハザルヲ以テ、忽然トシテ是ヲ去ル、人心ニ於テ如何ゾヤ、我レ孔孟ヲ起シテ、與ニ此義ヲ論セント欲ス、聞ク近世海外ノ諸蛮、各其賢智ヲ推擧シ、其政治ヲ革新シ、駸々然トシテ上國ヲ凌侮スルノ勢アリ、我何ヲ以テカ是ヲ制セン、他ナシ、前ニ論スル所ノ我国体ノ外国ト異ナル所以ノ大義ヲ明ニシ、闔国ノ人ハ闔国ノ爲メニ死シ、闔藩ノ人ハ闔藩ノ爲メニ死シ、臣ハ君ノ爲メニ死シ、子ハ父ノ爲メニ死スルノ志確乎タラハ、何ゾ諸蛮ヲ畏レンヤ、願クハ諸君ト茲ニ從事セン
新字:然トモ此論是レ国体上ヨリ出テ来ル所ナリ、漢土ニ在テハ君道自ラ別ナリ、大氏聰明睿智億兆ノ上ニ傑出スル者其君長トナルヲ故ニ堯舜ハ其位ヲ他人ニ譲リ、湯武ハ其主ヲ放伐スレトモ聖人ニ害ナシトス、我邦ハ上天朝ヨリ下列藩ニ至ル迄、千万世々襲シテ絶サルコト中々漢土ナトノ比スヘキニ非ズ、故ニ漢土ノ臣ハ縦ハ半季渡リノ奴婢ノ如シ、其主ノ善悪ヲ択ンテ転移スルコト固其所ナリ、我邦ノ臣ハ譜第ノ臣ナレハ、主人ト死生休戚ヲ同フシ、死ニ至ルト雖トモ主ヲ棄テ去ルヘキノ道絶テナシ、嗚呼我父母ハ何国ノ人ゾ、我衣食ハ何国ノ物ゾ、書ヲ読、道ヲ知ル、亦誰ガ恩ゾ、今少シク主ニ遇ハザルヲ以テ、忽然トシテ是ヲ去ル、人心ニ於テ如何ゾヤ、我レ孔孟ヲ起シテ、与ニ此義ヲ論セント欲ス、聞ク近世海外ノ諸蛮、各其賢智ヲ推挙シ、其政治ヲ革新シ、駸々然トシテ上国ヲ凌侮スルノ勢アリ、我何ヲ以テカ是ヲ制セン、他ナシ、前ニ論スル所ノ我国体ノ外国ト異ナル所以ノ大義ヲ明ニシ、闔国ノ人ハ闔国ノ為メニ死シ、闔藩ノ人ハ闔藩ノ為メニ死シ、臣ハ君ノ為メニ死シ、子ハ父ノ為メニ死スルノ志確乎タラハ、何ゾ諸蛮ヲ畏レンヤ、願クハ諸君ト茲ニ従事セン
書き下し
然れども此の論は是れ国体上より出で来る所なり。漢土に在りては君道自ら別なり。大抵聡明睿智、億兆の上に傑出する者其の君長となるを道とす。故に堯舜は其の位を他人に譲り、湯武は其の主を放伐すれども、聖人に害なしとす。我が邦は上天朝より下列藩に至る迄、千万世々襲して絶えざること、中々漢土などの比すべきに非ず。故に漢土の臣は縦へば半季渡りの奴婢の如し。其の主の善悪を択んで転移すること固より其の所なり。我が邦の臣は譜第の臣なれば、主人と死生休戚を同じうし、死に至ると雖も主を棄てて去るべきの道絶えてなし。嗚呼、我が父母は何国の人ぞ、我が衣食は何国の物ぞ、書を読み道を知る、亦誰が恩ぞ。今少しく主に遇はざるを以て、忽然として是れを去る、人心に於て如何ぞや。我孔孟を起して、与に此の義を論ぜんと欲す。聞く、近世海外の諸蛮、各々其の賢智を推挙し、其の政治を革新し、駸々然として上国を凌侮するの勢あり。我何を以てか是れを制せん。他なし、前に論ずる所の我が国体の外国と異なる所以の大義を明らかにし、闔国の人は闔国の為めに死し、闔藩の人は闔藩の為めに死し、臣は君の為めに死し、子は父の為めに死するの志確乎たらば、何ぞ諸蛮を畏れんや。願はくは諸君と茲に従事せん。
現代語訳
ただしこの議論は、国のあり方(国体)から出てくるものである。中国では君主の道がそもそも違う。おおむね、聡明で叡智にすぐれ、万民の上に抜きん出た者が君長となるのを道とする。だから堯や舜は位を他人に譲り、殷の湯王や周の武王は主君を追放し討ったが、聖人であることに差し支えないとされる。わが国は、上は朝廷から下は諸藩に至るまで、千万代にわたって代々受け継いで絶えることがなく、とても中国などの比べるところではない。だから中国の臣は、たとえれば半年ごとに奉公先を渡り歩く奉公人のようなもので、主人の善し悪しを選んで移るのも当然である。わが国の臣は譜代の臣であるから、主人と生死も喜憂も共にし、死に至っても主人を見捨てて去る道はまったくない。ああ、自分の父母はどこの国の人か。自分の衣食はどこの国のものか。書を読み道を知るのも、いったい誰のおかげか。いま少し主君に用いられないからといって、さっさと去ってしまうのは、人の心としてどうなのか。私は孔子・孟子をよみがえらせて、共にこの道理を論じたいと思う。聞けば近ごろ海外の諸国は、それぞれ賢く知恵ある者を推挙して政治を改め、勢いよく進んでわが国をあなどる勢いがある。私たちは何をもってこれを制するか。ほかでもない。先に論じた、わが国のあり方が外国と異なる大義を明らかにし、国じゅうの人は国のために死に、藩じゅうの人は藩のために死に、臣は君のために死に、子は父のために死ぬという志が確かであれば、どうして外国を恐れることがあろうか。願わくは諸君と共に、このことに力を尽くしたい。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 刺客列伝曰く、「吾以て下智伯に報ずべし」と。遂に剣に伏して自殺す。死するの日、趙国の志士之を聞き、皆為に涕泣す。其の後四十余年にして軹に聶政の事有り。
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『都鄙問答』卷之一・武士ノ道ヲ問ノ段露塵ほども我が身を顧みざるは、臣の道なり。常に手足が口に使はるると、我が身の君に事ふると、違ふことあらば、此は不忠なりと知るべし。此を法とせば、何国にて仕ふるとも、臣の道を離るることあるべからず。扨て臣は政に従ふものなり。下を使ふは、君の道を以て治むべし。古聖人の御代には、君としては万民を子の如く思し召し、民の心を以て、御心となし玉ふ。伝に云ふ、民の好む所は之を好み、民の悪む所は之を悪む、此を之れ民の父母と謂ふ。此のゆへに、聖人は世を没し玉へども、民思ひ慕ひてわすれずと云へり。此の味を知るべし。忠義の臣は名を後世に残し、天下の人これを愛す。礼に曰く、士四十にして志強く立ち、利害に奪はれず、禍福に怵れずんば、以て出で仕ふべし、と見えたり。士の道は、先づ心を知りて志を定むべし。孟子曰く、志を尚くす。
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『酔古堂剣掃』集奇・讀みて淚を墮さざる者諸葛武侯の『出師表』を讀みて淚を墮さざる者は、其の人必ず忠ならず。韓退之の『祭十二郎文』を讀みて淚を墮さざる者は、其の人必ず友ならず。
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史記 刺客列伝居ること頃之、豫譲又身に漆して厲と為り、炭を呑みて唖と為り、形状をして知るべからざらしめ、市に行乞す。其の妻識らざるなり。行きて其の友に見ゆ。其の友之を識りて曰く、「汝は豫譲に非ずや」と。曰く、「我是なり」と。其の友為に泣きて曰く、「子の才を以て、質を委ねて臣として襄子に事へば、襄子必ず子を近幸せん。子を近幸せば、乃ち欲する所を為すこと、顧って易からずや。何ぞ乃ち身を残し形を苦しめ、以て襄子に報ぜんことを求めんと欲する。亦難からずや」と。豫譲曰く、「既已に質を委ねて臣として人に事へ、而して之を殺さんことを求むるは、是れ二心を懐きて以て其の君に事ふるなり。且つ吾が為す所の者は極めて難きのみ。然れども此を為す所以の者は、将に以て天下後世の人臣と為りて二心を懐きて以て其の君に事ふる者を愧ぢしめんとするなり」と。既に去り、頃之、襄子当に出づべし。豫譲、当に過ぐべき所の橋の下に伏す。襄子橋に至り、馬驚く。襄子曰く、「此れ必ず是れ豫譲ならん」と。人をして之を問はしむれば、果して豫譲なり。是に於て襄子乃ち豫譲を数めて曰く、「子は嘗て范・中行氏に事へずや。智伯尽く之を滅ぼす。而るに子は為に讎を報ぜず、而して反って質を委ねて智伯に臣たり。智伯も亦已に死せり。而るに子独り何を以て之が為に讎を報ずることの深きや」と。豫譲曰く、「臣、范・中行氏に事ふ。范・中行氏は皆衆人もて我を遇す。我故に衆人もて之に報ず。智伯に至りては、国士もて我を遇す。我故に国士もて之に報ず」と。襄子喟然として嘆息して泣きて曰く、「嗟乎豫子。子の智伯の為にする、名既に成れり。而して寡人の子を赦す、亦已に足れり。子其れ自ら計を為せ。寡人復た子を釈さず」と。兵をして之を囲ましむ。豫譲曰く、「臣聞く、明主は人の美を掩はず、而して忠臣は名に死するの義有りと。前に君已に寛く臣を赦し、天下君の賢を称せざる莫し。今日の事、臣固より誅に伏せん。然れども願はくは君の衣を請ひて之を撃ち、以て讎を報ずるの意を致さば、則ち死すと雖も恨みず。敢て望む所に非ざるなり。敢て腹心を布く」と。是に於て襄子大いに之を義とし、乃ち使をして衣を持ちて豫譲に与へしむ。豫譲剣を抜きて三たび躍りて之を撃ち、
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史記 斉悼恵王世家路中大夫既に之を許し、城下に至り、斉王を望見して、曰く、「漢已に兵百万を発し、太尉周亜夫をして呉楚を撃破せしめ、方に兵を引きて斉を救はんとす、斉必ず堅守して下ること無かれ」と。三国の将路中大夫を誅す。斉初め囲まれて急なり、陰かに三国と通謀し、約未だ定まらず、会々路中大夫の漢より来たるを聞き、喜び、其の大臣に及びて乃ち復た王に三国に下ること毋からんことを勧む。居ること何くも無く、漢の将欒布・平陽侯等の兵斉に至り、三国の兵を撃破し、斉の囲みを解く。已にして復た斉の初め三国と謀有るを聞き、将に兵を移して斉を伐たんとす。斉の孝王懼れ、乃ち薬を飲みて自殺す。景帝之を聞き、以為へらく斉は首め善なり、迫劫を以て謀有り、其の罪に非ざるなりと、乃ち孝王の太子寿を立てて斉王と為す、是れを懿王と為す、斉の後を続がしむ。而して膠西・膠東・済南・菑川の王咸誅滅せられ、地漢に入る。済北王を徙して菑川に王とす。斉の懿王立ちて二十二年にして卒し、子次景立つ、是れを厲王と為す。斉の厲王、其の母を紀太后と曰ふ。太后其の弟紀氏の女を取りて厲王の后と為す。王紀氏の女を愛せず。太后其の家の重寵ならんことを欲し、其の長女紀翁主をして王宮に入り、其の後宮を正さしめ、王に近づくを得しむる毋からしめ、紀氏の女を愛せしめんと欲す。王因りて其の姊翁主と姦す。斉に宦者徐甲有り、入りて漢の皇太后に事ふ。皇太后に愛女有り修成君と曰ふ、修成君は劉氏に非ず、太后之を憐れむ。修成君に女有り名は娥、太后之を諸侯に嫁せんと欲す、宦者甲乃ち斉に使ひせんことを請ひ、必ず王をして上書して娥を請はしめんとす。皇太后喜び、甲をして斉に之かしむ。是の時斉人主父偃甲の斉に使ひして以て后を取るの事を知り、亦た因りて甲に謂ふ、「即し事成らば、幸はくは偃の女後宮に充たるを得んことを願ふと言へ」と。甲既に斉に至り、風するに此の事を以てす。紀太后大いに怒りて曰く、「王に后有り、後宮具備す。
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『春秋左氏伝』昭公二十年 宗魯、死を公孟に帰す衛の公孟縶齊豹を狎(かろ)んじ、之が司寇と鄄とを奪ふ。役有れば則ち之を反し、無ければ則ち之を取る。公孟北宮喜・褚師圃を惡み、之を去らんと欲す。公子朝襄夫人宣姜に通じ、懼れて以て亂を作さんと欲す。故に齊豹・北宮喜・褚師圃・公子朝、亂を作す。初め、齊豹宗魯を公孟に見えしめ、驂乘と為す。將に亂を作さんとして、之に謂ひて曰く、「公孟の不善なるは、子の知る所なり。與に乘ること勿かれ。吾將に之を殺さんとす」と。對へて曰く、「吾子に由りて公孟に事ふ。子吾に名を假す。故に吾を遠ざけず。其の不善なりと雖も、吾も亦た之を知る。抑も利の故を以て、去る能はず。是れ吾が過ちなり。今難を聞きて逃るるは、是れ子を僭(いつは)るなり。子事を行へ。吾將に之に死し、以て子に事ふることを周くし、而して死を公孟に歸さん。其れ可ならん」と。丙辰、衛侯平壽に在り。公孟蓋獲の門の外に事有り。齊子氏門の外に帷して、甲を伏す。
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