国語 / 呉語
於是吳王起師,軍於江北,越王軍於江南。越王乃中分其師以為左右軍,以其私卒君子六千人為中軍。明日將舟戰於江,及昏,乃令左軍銜枚泝江五里以須,亦令右軍銜枚踰江五里以須。夜中,乃命左軍、右軍涉江鳴鼓中水以須。吳師聞之,大駭,曰:「越人分為二師,將以夾攻我師。」乃不待旦,亦中分其師,將以禦越。越王乃令其中軍銜枚潛涉,不鼓不譟以襲攻之,吳師大北。越之左軍、右軍乃遂涉而從之,又大敗之於沒,又郊敗之,三戰三北,乃至於吳。越師遂入吳國,圍王臺。 吳王懼,使人行成,曰:「昔不穀先委制於越君,君告孤請成,男女服從。孤無奈越之先君何,畏天之不祥,不敢絕祀,許君成,以至於今。今孤不道,得罪於君王,君王以親辱於弊邑。孤敢請成,男女服為臣御。」越王曰:「昔天以越賜吳,而吳不受;今天以吳賜越,孤敢不聽天之命,而聽君之令乎?」乃不許成。因使人告於吳王曰:「天以吳賜越,孤不敢不受。以民生之不長,王其無死!民生於地上,寓也,其與幾何?寡人其達王於甬句東,夫婦三百,唯王所安,以沒王年。」夫差辭曰:「天既降禍於吳國,不在前後,當孤之身,寔失宗廟社稷。凡吳土地人民,越既有之矣,孤何以視於天下!」夫差將死,使人說於子胥曰:「使死者無知,則已矣;若其有知,吾何面目以見員也!」遂自殺。 越滅吳,上征上國,宋、鄭、魯、衛、陳、蔡執玉之君皆入朝。夫唯能下其群臣,以集其謀故也。
新字:於是呉王起師,軍於江北,越王軍於江南。越王乃中分其師以為左右軍,以其私卒君子六千人為中軍。明日将舟戦於江,及昏,乃令左軍銜枚泝江五里以須,亦令右軍銜枚踰江五里以須。夜中,乃命左軍、右軍渉江鳴鼓中水以須。呉師聞之,大駭,曰:「越人分為二師,将以夾攻我師。」乃不待旦,亦中分其師,将以禦越。越王乃令其中軍銜枚潜渉,不鼓不譟以襲攻之,呉師大北。越之左軍、右軍乃遂渉而従之,又大敗之於没,又郊敗之,三戦三北,乃至於呉。越師遂入呉国,囲王台。 呉王懼,使人行成,曰:「昔不穀先委制於越君,君告孤請成,男女服従。孤無奈越之先君何,畏天之不祥,不敢絶祀,許君成,以至於今。今孤不道,得罪於君王,君王以親辱於弊邑。孤敢請成,男女服為臣御。」越王曰:「昔天以越賜呉,而呉不受;今天以呉賜越,孤敢不聴天之命,而聴君之令乎?」乃不許成。因使人告於呉王曰:「天以呉賜越,孤不敢不受。以民生之不長,王其無死!民生於地上,寓也,其与幾何?寡人其達王於甬句東,夫婦三百,唯王所安,以没王年。」夫差辞曰:「天既降禍於呉国,不在前後,当孤之身,寔失宗廟社稷。凡呉土地人民,越既有之矣,孤何以視於天下!」夫差将死,使人説於子胥曰:「使死者無知,則已矣;若其有知,吾何面目以見員也!」遂自殺。 越滅呉,上征上国,宋、鄭、魯、衛、陳、蔡執玉之君皆入朝。夫唯能下其群臣,以集其謀故也。
書き下し
是に於いて呉王師を起こし、江北に軍す。越王江南に軍す。越王乃ち其の師を中分して以て左右軍と為し、其の私卒君子六千人を以て中軍と為す。明日将に江に舟戦せんとし、昏に及んで、乃ち左軍をして枚(ばい)を銜(ふく)みて江を泝ること五里にして以て須(ま)たしめ、亦右軍をして枚を銜みて江を踰(わた)ること五里にして以て須たしむ。夜中、乃ち左軍・右軍に命じて江を渉り鼓を鳴らして水に中(あた)りて以て須たしむ。呉の師之を聞きて大いに駭きて曰く、「越人分かれて二師と為り、将に以て我が師を夾攻せんとす」と。乃ち旦を待たず、亦其の師を中分して、将に以て越を禦がんとす。越王乃ち其の中軍をして枚を銜みて潜かに渉り、鼓せず譟(さわ)がずして以て之を襲攻せしむ。呉の師大いに北(に)ぐ。越の左軍・右軍乃ち遂に渉りて之に従い、又大いに之を没(ぼつ)に敗り、又郊に之を敗る。三たび戦いて三たび北げ、乃ち呉に至る。越の師遂に呉国に入り、王台を囲む。 呉王懼れ、人をして成を行わしめて曰く、「昔不穀(ふこく)先に制を越君に委ね、君孤に告げて成を請い、男女服従す。孤越の先君を奈何(いかん)ともする無く、天の不祥を畏れ、敢えて祀を絶たず、君の成を許して、以て今に至る。今孤不道にして、罪を君王に得、君王以て親ら弊邑に辱くす。孤敢えて成を請う。男女服して臣御と為らん」と。越王曰く、「昔天越を以て呉に賜うも、呉受けず。今天呉を以て越に賜う。孤敢えて天の命を聴かずして、君の令を聴かんや」と。乃ち成を許さず。因りて人をして呉王に告げしめて曰く、「天呉を以て越に賜う。孤敢えて受けずんばあらず。民生の長からざるを以て、王其れ死すること無かれ。民の地上に生くるは、寓なり。其れ幾何ぞ。寡人其れ王を甬句東(ようこうとう)に達(いた)さん。夫婦三百、唯王の安んずる所にして、以て王の年を没えよ」と。夫差辞して曰く、「天既に禍を呉国に降す。前後に在らずして、孤の身に当たり、寔に宗廟社稷を失う。凡そ呉の土地人民、越既に之を有てり。孤何を以て天下に視(しめ)さん」と。夫差将に死せんとし、人をして子胥に説(つ)げしめて曰く、「死者をして知ること無からしめば、則ち已む。若し其れ知ること有らば、吾何の面目ありて以て員に見えんや」と。遂に自殺す。 越呉を滅ぼし、上(かみ)上国を征し、宋・鄭・魯・衛・陳・蔡の玉を執る君皆入朝す。夫れ唯能く其の群臣に下りて、以て其の謀を集めしが故なり。
現代語訳
こうして呉王は軍を起こして長江(松江)の北岸に陣を構え、越王は南岸に陣を構えた。越王は軍を二つに分けて左軍と右軍とし、自分の親衛の精鋭六千人を中軍とした。翌日、川で舟戦をしようというその日の日暮れに、左軍には口に枚(ばい、声を立てないための木片)をくわえさせて川上へ五里さかのぼったところで待機させ、右軍にも枚をくわえさせて川下へ五里渡ったところで待機させた。夜半、左軍と右軍に命じて川を渡らせ、川の中ほどで太鼓を打ち鳴らして待たせた。呉の軍はそれを聞いて大いに驚き、「越軍は二手に分かれて、わが軍を挟み撃ちにしようとしている」と言い、夜明けを待たずに、呉もまた軍を二つに分けて越を防ごうとした。越王はそこで中軍に枚をくわえさせてひそかに川を渡らせ、太鼓も打たず声も上げずに呉軍を襲わせた。呉の軍は大敗して逃げた。越の左軍と右軍もそのまま川を渡って追撃し、没で大いに破り、さらに呉の都の郊外でも破った。呉は三たび戦って三たび敗れ、越軍はついに呉の都に至った。越の軍は呉の国に攻め入って、王の高殿(姑蘇台)を包囲した。 呉王は恐れて、使者を送り和睦を申し入れた。「かつてわたしは越の君に国の命運をゆだねる立場にありましたが、君はわたしに和睦を願い、男も女も服従を誓われました。わたしは越の先君との誼(よしみ)をないがしろにできず、天の不吉を恐れて、あえて越の祭祀を絶やさず、君の和睦を許して今日に至りました。いまわたしは道にはずれて君王に罪を得、君王は御自らわが小国にお越しくださいました。わたしはあえて和睦を願います。男も女も臣下や召使いとしてお仕えいたします」。越王は言った。「昔、天は越を呉に賜ったのに、呉は受け取らなかった。いま天は呉を越に賜った。わたしがどうして天の命に背いて、君の言うことを聞けようか」。こうして和睦を許さなかった。そのうえで使者をやって呉王に告げさせた。「天が呉を越に賜った以上、わたしは受けないわけにはいかない。人の命は長くないのだから、王は死んではならない。人がこの世に生きるのは、仮の宿りにすぎない。それがどれほどの間だろうか。わたしは王を甬句東(越の東の海上の島)にお送りしよう。男女それぞれ三百人をつけて、王の心安らぐままに、そこで余生を送られるがよい」。夫差は辞退して言った。「天はすでに呉の国に禍いを降した。それも前の代でも後の代でもなく、まさにわたしの身の上に降りかかり、宗廟と社稷をまことに失ってしまった。呉の土地も民も、すべてすでに越のものとなった。わたしはどの面を下げて天下に顔をさらせようか」。夫差は死に臨み、人をやって子胥の霊に告げさせた。「もし死者に知るところがないのなら、それまでだ。しかしもし知るところがあるのなら、わたしはどんな顔をして員(伍子胥)に会えばよいのか」。こうして自ら命を絶った。 越は呉を滅ぼすと、さらに北上して中原の国々に臨み、宋・鄭・魯・衛・陳・蔡の、玉を執る君主たちはみな越に来朝した。これはひとえに、越王が群臣にへりくだって、その謀を集めることができたからである。
解説
この章句が説くこと
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孟子・梁惠王章句下魯の平公將に出でんとす。嬖人臧倉なる者請うて曰く、「他日、君出づれば、則ち必ず有司に之く所を命ず。今、輿に乘り已に駕す。有司未だ之く所を知らず。敢て請う。」公曰く、「將に孟子を見んとす。」曰く、「何ぞや。君の為す所、身を輕んじて以て匹夫に先だつとは。以て賢と為すか。禮義は賢者由り出づ。而るに孟子の後喪は前喪に踰えたり。君、見る無かれ。」公曰く、「諾。」樂正子、入り見えて曰く、「君、奚為れぞ孟軻を見ざるや。」曰く、「或ひと寡人に告げて曰く、『孟子の後喪は前喪を踰えたり。』是を以て往きて見ざるなり。」曰く、「何ぞや。君の所謂踰ゆとは。前には士を以てし、後には大夫を以てし、前には三鼎を以てし、後には五鼎を以てしたるか。」曰く、「否。棺槨衣衾の美を謂うなり。」曰く、「所謂踰ゆるには非ざるなり。貧富同じからざればなり。」樂正子、孟子に見えて曰く、「克、君に告ぐ。君、來たり見んと為す。嬖人に臧倉なる者有り、君を沮む。君是を以て來たることを果たさざるなり。」曰く、「行くも之を使しむる或り、止まるも之を尼むる或り。行止は人の能くする所に非ざるなり。吾の魯侯に遇わざるは、天なり。臧氏の子、焉ぞ能く予をして遇わしめざらんや。」
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