国語 / 楚語上
椒舉娶於申公子牟,子牟有罪而亡,康王以為椒舉遣之,椒舉奔鄭,將遂奔晉。蔡聲子將如晉,遇之於鄭,饗之以璧侑,曰:「子尚良食,二先子其皆相子,尚能事晉君以為諸侯主。」辭曰:「非所願也。若得歸骨於楚,死且不朽。」聲子曰:「子尚良食,吾歸子。」椒舉降三拜,納其乘馬,聲子受之。 還見令尹子木,子木與之語,曰:「子雖兄弟於晉,然蔡吾甥也,二國孰賢?」對曰:「晉卿不若楚,其大夫則賢,其大夫皆卿材也。若杞梓、皮革焉,楚實遺之,雖楚有材,不能用也。」子木曰:「彼有公族甥、舅,若之何其遺之材也?」對曰:「昔令尹子元之難,或譖王孫啟於成王,王弗是,王孫啟奔晉,晉人用之。及城濮之役,晉將遁矣,王孫啟與於軍事,謂先軫曰:『是師也,唯子玉欲之,與王心違,故唯東宮與西廣寔來。諸侯之從者,叛者半矣,若敖氏離矣,楚師必敗,何故去之!』先軫從之,大敗楚師,則王孫啟之為也。 「昔莊王方弱,申公子儀父為師,王子燮為傅,使師崇、子孔帥師以伐舒。燮及儀父施二帥而分其室。師還至,則以王如廬,廬戢黎殺二子而復王。或譖析公臣於王,王弗是,析公奔晉,晉人用之。寔讒敗楚,使不規東夏,則析公之為也。
新字:椒舉娶於申公子牟,子牟有罪而亡,康王以為椒舉遣之,椒舉奔鄭,将遂奔晋。蔡声子将如晋,遇之於鄭,饗之以璧侑,曰:「子尚良食,二先子其皆相子,尚能事晋君以為諸侯主。」辞曰:「非所願也。若得帰骨於楚,死且不朽。」声子曰:「子尚良食,吾帰子。」椒舉降三拝,納其乗馬,声子受之。 還見令尹子木,子木与之語,曰:「子雖兄弟於晋,然蔡吾甥也,二国孰賢?」対曰:「晋卿不若楚,其大夫則賢,其大夫皆卿材也。若杞梓、皮革焉,楚実遺之,雖楚有材,不能用也。」子木曰:「彼有公族甥、舅,若之何其遺之材也?」対曰:「昔令尹子元之難,或譖王孫啓於成王,王弗是,王孫啓奔晋,晋人用之。及城濮之役,晋将遁矣,王孫啓与於軍事,謂先軫曰:『是師也,唯子玉欲之,与王心違,故唯東宮与西広寔来。諸侯之従者,叛者半矣,若敖氏離矣,楚師必敗,何故去之!』先軫従之,大敗楚師,則王孫啓之為也。 「昔荘王方弱,申公子儀父為師,王子燮為傅,使師崇、子孔帥師以伐舒。燮及儀父施二帥而分其室。師還至,則以王如廬,廬戢黎殺二子而復王。或譖析公臣於王,王弗是,析公奔晋,晋人用之。寔讒敗楚,使不規東夏,則析公之為也。
書き下し
椒挙(しょうきょ)申公子牟(しぼう)に娶る。子牟罪有りて亡(に)ぐ。康王以て椒挙之を遣れりと為す。椒挙鄭に奔り、将に遂に晋に奔らんとす。蔡声子(さいせいし)将に晋に如かんとし、之に鄭に遇う。之を饗するに璧侑(へきゆう)を以てし、曰く、「子尚(こいねが)わくは良く食え。二先子其れ皆子を相(たす)けん、尚わくは能く晋君に事えて以て諸侯の主と為せ」と。辞して曰く、「願う所に非ざるなり。若し骨を楚に帰すを得ば、死すとも且つ朽ちず」と。声子曰く、「子尚わくは良く食え、吾子を帰さん」と。椒挙降りて三拝し、其の乗馬を納る。声子之を受く。 還りて令尹子木に見ゆ。子木之と語りて曰く、「子は晋に兄弟たりと雖も、然れども蔡は吾が甥なり。二国孰か賢れる」と。対えて曰く、「晋の卿は楚に若かず。其の大夫は則ち賢なり、其の大夫は皆卿の材なり。杞梓(きし)・皮革の若し、楚実に之を遺る。楚に材有りと雖も、用うること能わざるなり」と。子木曰く、「彼に公族甥舅有り、若之何(いかん)ぞ其れ之に材を遺らんや」と。対えて曰く、「昔令尹子元の難に、或るひと王孫啓を成王に譖(しん)す。王是(ただ)さず。王孫啓晋に奔り、晋人之を用う。城濮(じょうぼく)の役に及び、晋将に遁れんとす。王孫啓軍事に与(あずか)り、先軫(せんしん)に謂いて曰く、『是の師や、唯だ子玉之を欲し、王の心と違う。故に唯だ東宮と西広と寔(まこと)に来る。諸侯の従う者、叛く者半ばなり。若敖氏(じゃくごうし)離る。楚師必ず敗れん、何の故に之を去らん』と。先軫之に従い、大いに楚師を敗る。則ち王孫啓の為なり。 「昔荘王方に弱きとき、申公子儀父(しぎほ)師と為り、王子燮(しょう)傅と為る。師崇・子孔をして師を帥いて以て舒(じょ)を伐たしむ。燮と儀父と二帥に施して其の室を分かつ。師還り至れば、則ち王を以て廬に如く。廬の戢黎(しゅうれい)二子を殺して王を復す。或るひと析公臣を王に譖す。王是さず。析公晋に奔り、晋人之を用う。寔に楚を讒敗し、東夏を規(たも)たざらしむ。則ち析公の為なり。
現代語訳
椒挙(伍挙、楚の大夫)は申公子牟の娘を妻にしていた。子牟が罪を犯して国外に逃げると、康王は椒挙が子牟を逃がしたのだと考えた。椒挙は鄭に逃れ、さらに晋へ逃げようとしていた。蔡の声子(椒挙の友人)が晋へ行く途中、鄭で椒挙に出会った。声子は椒挙をもてなし、璧を贈って食を勧めながら言った。「どうかしっかり食べてくれ。君の二人の祖先の霊がきっと君を助けてくれる。晋の君によく仕えて、晋を諸侯の盟主にしてやるがよい。」椒挙は辞退して言った。「それは私の願いではありません。もし骨だけでも楚に帰ることができれば、死んでも朽ちることはないと思っています。」声子は言った。「それならしっかり食べてくれ。私が君を楚に帰してやろう。」椒挙は堂を降りて三度拝し、自分の車馬を声子に贈った。声子はそれを受け取った。 声子は晋から帰ると、楚の令尹子木(屈建)に会った。子木は声子と語り合って言った。「あなたは晋とは兄弟のような間柄だが、蔡は楚の甥にあたる国だ。晋と楚ではどちらが優れているか。」声子は答えた。「晋の卿は楚の卿に及びません。しかし晋の大夫は優れていて、みな卿になれる器です。杞や梓の良材、皮革のように、楚が晋に送り出しているのです。楚には人材がいても、用いることができないのです。」子木は言った。「晋には公族や姻戚がいるのに、どうして楚がわざわざ人材を送ることになるのか。」声子は答えた。「昔、令尹子元の乱のとき、ある者が王孫啓を成王に讒言し、王はその無実を正しませんでした。王孫啓は晋に逃げ、晋の人々は彼を用いました。城濮の戦いの時、晋軍は退却しかけていましたが、王孫啓は軍議に加わり、先軫(晋の将軍)にこう言いました。『この戦は子玉(楚の令尹)だけが望んだもので、王の意向に背いています。だから来ているのは東宮と西広の兵だけです。従っている諸侯も半ばは離反し、若敖氏(子玉の一族)も心が離れています。楚軍は必ず負けます。なぜ退くのですか。』先軫はこれに従い、楚軍を大いに破りました。これは王孫啓のしわざなのです。 「昔、荘王がまだ幼かったころ、申公子儀父が師となり、王子燮が傅となりました。潘崇(師崇)と子孔に軍を率いて舒を討たせたところ、燮と儀父は二人の将に罪をかぶせてその家財を分け取りました。軍が帰ってくると、二人は王を連れて廬に逃げましたが、廬の戢黎が二人を殺して王を都に戻しました。その後、ある者が析公臣を王に讒言し、王はそれを正しませんでした。析公は晋に逃げ、晋の人々は彼を用いました。そして楚を陥れて敗り、楚に東方の蔡や沈を保てなくさせたのです。これは析公のしわざなのです。
解説
この章句が説くこと
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