甲陽軍鑑 / 品第十三
其時則政大きに立腹し給ひ、本間·井又生害におよぶ所に漸にげのび、在地の体なり、家老衆わびこと申さるれ共、只はならず、彼の兩人奉行衆內の者共に理はりを致したると申せば、兩出頭衆の前へ如何がにて年月さつて四年の間閑居也、其內に北條家と取り合ひの境目にて、度々心操あれと更らに取り次ぐ人なし、
新字:其時則政大きに立腹し給ひ、本間·井又生害におよぶ所に漸にげのび、在地の体なり、家老衆わびこと申さるれ共、只はならず、彼の両人奉行衆内の者共に理はりを致したると申せば、両出頭衆の前へ如何がにて年月さつて四年の間閑居也、其内に北条家と取り合ひの境目にて、度々心操あれと更らに取り次ぐ人なし、
書き下し
其時則政大きに立腹し給ひ、本間·井又生害におよぶ所に漸にげのび、在地の体なり、家老衆わびこと申さるれ共、只はならず、彼の両人奉行衆内の者共に理はりを致したると申せば、両出頭衆の前へ如何がにて年月さつて四年の間閑居也、其内に北条家と取り合ひの境目にて、度々心操あれと更らに取り次ぐ人なし、
現代語訳
その時、則政は大いに立腹され、本間・井又は生害に及ぶところをようやく逃げ延び、在所にいる体である。家老衆がわびごとを申されたが、ただではならない。かの両人が奉行衆の内の者どもに断りをいたしたと申せば、両出頭衆の前へどうかとして、年月が去って四年の間閑居である。その内に北条家との取り合いの境目で、度々心ばせを示したいと願っても、さらに取り次ぐ人がいない。
解説
片寄った報告を信じた則政は激怒し、本間と井又は命からがら逃れて四年もの間閑居する。家老がとりなしても、出頭人の顔色をうかがうばかりで道が開かない。境目の戦で働きたいと願っても、取り次ぐ者がいない。権力を握る側近に嫌われると、有能な人材が埋もれてしまう。組織に取り次ぐ人がいない才能が眠っていないか見たい。処分の前に、双方の言い分を確かめる手順を持っておきたい。
この章句が説くこと
人材讒言出頭人閑居取次埋没
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『甲陽軍鑑』品第十二古語ニ曰、掬スレハ水ヲ月在手ニ弄スレバ花ヲ香満衣ニといふ心に、三略ニ曰、雖窮不処亡国之位、雖貧不食乱邦之禄といふ義理にて、立ち出つれども残りたる愚人は善悪をしらずして、出てたる跡にて其能き人を散々にあしう申者なり、されども作りこと成るにより愚人の能き人を誹ること五所にては五様と申す、口のちがうは必ず空言をいふてそねむと思召し候へ、
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